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2016年9月18日

祷告の祈り(父の信仰)

 

 

 

『絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい』。(エペソ書6章18節)

 

9月21日はわたしの父の召天20年の記念の日になります。そこで今日は父の信仰について話をします。父の生涯を貫いているのは「祷告」の信仰でした。これは信者さんのために一人一人の名前を上げて祝福を祈るいのりです。また問題のある人のためには、その問題が解決するように祈り、また病める人のためには、その病気が癒されるために祈るのです。

 

 この祷告は、父が20歳代の中頃、東京の柘植不知人先生のもとで献身していたときに、先生から直接教えられたもので、それ以来、天に召されるまでそれを貫いた生涯でした。父は柘植先生から尼崎伝道館に遣わされていましたが、ある出来事から神戸での伝道に導かれ、伝道を始めたのが1928年(昭和3年)でした。兵庫区荒田町の借家を借りて伝道しましたが、それが祝福されて教勢がのび、その後、電車道の伝道館を経て、1932年(昭和7年)に現在地に教会を建てたのです。つまり、神戸での伝道を始めて4年目に、このような大きな教会を建てたのですから驚異的なことです。しかも、父の33歳のときでした。それ以来84年間、戦時中の空襲からも、また阪神大震災からも守られて今日に至っております。

 

 さて、父の生涯は97年と7ヶ月の人生でしたが、その最後まで「祷告」の生涯でした。その日も、朝起きてベットの上で食事をし、その後、ベットの上で日課の祷告を始めましたが、昼過ぎに突然意識を失って容態がおかしくなり、そのまま召されました。その最期は苦しみも痛みもなく、実に平安な最期でした。しかも、祷告の祈りをしながら召されたのです。

 

 これが山手教会の信仰ですから、皆さんも祈りの信仰をしっかりもって祈りの人になってください。父の愛唱の聖句は「すべての聖徒のために祈りつづけなさい」。これは文語訳では「祈りてうまざるべし」とあり、父はこれを生涯のみ言葉として、このみ言葉のような歩みをしてきました。

 

 さて、祈りはわたしたちクリスチャンには最も大切なものです。わたしたちが恵まれた生活を送るためにも、また勝利の生涯を送るためにも不可欠なものです。何故なら、クリスチャンの祈りは、ただ願い事をするだけでなく、神との交わりなのです。また霊的力の充電のときです。車を始動させるためにはバッテリーの電気で動かしますが、バッテリーはよくできたもので、エンジンが始動すると、その回転を利用してまたバッテリーに充電しているのです。ですから車はいつでも力強く始動するのです。どうぞ皆さんのバッテリーにもいつも充電をしてください。すると「走っても疲れることなく、歩いてもよわることがない」とあるように、力強い人生を歩くことができるのです。

 

 マタイ福音書14章23節に「それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」とあります。これはイエスの霊的力の充電のときだったのです。その前にイエスは5つのパンと2匹の魚で5千人を養うという驚異的な奇跡を行いました。その後、人々を解散させ、弟子たちを舟に乗り込ませ、イエスひとりが山に登られたのです。これは神との交わり霊的力の充電をされたのです。イエスのようなお方でさえこのようにされたのですから、ましてやわたしたちは、もっと神との交わり霊的力の充電を大切にしなければなりません。

 

 宗教改革者マルチン・ルターが言った言葉に、「忙しければ忙しいほど、多くのときを祈りに費やさなければならない」とあります。忙しいときは魂が疲れて危険なときです。ですから、そんなときこそ祈って霊的力の充電をしなければなりません。忙しいという文字は、「心が亡びる」と書きます。ですから忙しい人ほど祈りの時間を大切にしてください。また、神に用いられていい働きをしている人は、みなよく祈っている人です。祈らないで人間的知恵や力で働いてもいい結果はでません。大切なのは聖霊が働くかどうかです。

(2016.9.18)