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2016年6月26日




完全な愛は恐れをとり除く

 

『愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。…かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。』。(ヨハネ第一書418節)

 

 

 このところ「愛」シリーズで話をしていますが、今日はその第4回目として「恐れない愛」について話します。日本語では「愛」という言葉は一つですが、ギリシャ語ではアガペー、フィレオ、エロスと三つの言葉で使い分けています。つまり、アガペーは神の愛を語るときに使われます。広辞苑を開くと、「神が罪人たる人間に対して、一方的に恩寵を与える行為で、キリスト教の自己犠牲な愛として新約聖書に現れた思想」とあります。またフィレオは友愛、また母親が子どもを愛する愛です。そしてエロスは言うまでもなく肉欲的、性的愛を言うときに使われます。

 

 さて、イエスの愛は弱い者、貧しい者、この世から見捨てられ、だれからも相手にされないような者に届かれました。そのよい例はマタイ福音書9章でイエスが取税人マタイの家を尋ねて一緒に食事をしておられる光景です。当時のユダヤ人社会では、取税人は罪びととされ社会から隔絶された存在でした。そのためにこの人たちと交わるなど考えられないことでした。しかも一緒に食事をするなんて…。しかし、イエスは人の噂でどう言われようがそんなことは頓着しませんでした。それはイエスが愛の人だったからです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを除く」です。ですから取税人マタイはイエスの愛の触れてイエスの弟子となり、後に「マタイ福音書」を書き残すという働きをしたのです。

 

 またルカ福音書19章にエリコの町でイエスがザアカイに出会った話がありましたが、彼もこの町の取税人でした。彼は不正な取り立てをして莫大な財産を得ましたが、町の人から嫌われ孤独な存在でした。そこへイエスが来られてザアカイの家を尋ねたのです。

イエスがザアカイの家を尋ねたため町の人たちは、「この町には、もっと立派な人がいるのに、なんで罪人のザアカイの家を尋ねたのか」、イエスに躓いたのです。その真相は後に分かりました。ザアカイは食事の席で突然言ったのです。「わたしの財産の半分を貧しい人に施します。また不正に取り立てた人には四倍にして返します」と。これを聞いて町の人たちは「ザアカイは変わった」と言って喜んだのは言うまでもありません。

 

 さて、今日はカトリックの「託鉢修道会」の話をします。修道院が最初に誕生したのは西暦270年にエチオピアです。その後、次々と誕生しましたが、その起こりは教会の世俗化を嘆き、人里離れた山野に退いて信仰を守ろうとする隠遁の風が起こってきたのです。そして社会と隔絶して祈りと労働で自給自足の生活をしたのが修道院です。

 

 それに対して、13世紀になって「託鉢修道会」が誕生しました。フランシスコ会、イエスズ会、アウグスチの会、ドミニクス会などです。この託鉢修道会は町の中に住み、町のな

かで積極的に奉仕をしました、また伝道でも著しい働きをしています。おりしも1517年にルターが宗教改革をしてプロテスタントが起きましたので、ヨーロッパではカトリック教会の勢力が半減しました。そこで彼らは新しい伝道の地を求めて海外伝道に励んだのです。時代は大航海時代だったので、彼らは1549年に日本まで福音をもたらしたのです。それがイエスズ会のザビエルの一行です。

 

 その託鉢修道会の著しい働きとして語られているのは、1348年と1349年にわたってヨーロッパで鼠が媒介したペストが大流行し、多くの人たちが死亡しました。このとき託鉢修道会の人たちが町に出て彼らのために救護活動をしたのです。だれもペストに罹った人に、近寄ろうともしないのに、修道士たちは献身的に働いたのです。そのため一万人近い修道士が感染して亡くなったと言われています。彼らはイエスの愛に満たされていたので、死ぬことも病気に感染することも恐れなかったのです。

 

 最後に柘植不知人先生の奥様の愛について話します。家出をして行方不明になっていた先生の妹さんが広島駅で行き倒れになっていたのが見つかり、先生は神戸の自宅に迎えて看病しましたが、すでに結核の三期でした。奥様は妹さんの横に床を敷いて看病をし、妹さんの食べ残したものを、その見ている前できれいに食べたそうです。それを見て柘植先生が「そんなことをして感染したらどうする。御霊の常識を弁えなさい」と注意をしましたら、「そんなことを畏れていては、この妹を救うことはできません」と答えたと言うのです。ときどきヒステリーが起きて暴れると、手がつけられないほどになりますが、奥様がひとこと「もう、おやめなさい」と優しく言うと、「はい」とおとなしくなったというのです。彼女は「この人だけはわたしを愛している」と知っていたからです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く」。

 

                     (20160626