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2016年5月15日



ペンテコステの結果

 

 

 

『五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。…すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した』。

                 (使徒行伝2章1節)

 

 

 イエスの昇天を見送った弟子たち120名が、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」との、イエスのお言葉に従って、エルサレムの、とある家の二階座敷で祈り会をしていました。そして10日目に彼らの上に聖霊が下ったのです。これが「ペンテコステ」です。この日は五旬節の日とありますが、この「五旬節」とは、50日目という意味で、イエスが復活された日から数えて50日目に当たります。

 

「みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。…すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」とあります。これがペンテコステの光景です。そしてまた、「初代エルサレム教会」の誕生の日となりました。

 

 さて、今日は聖霊に満たされた弟子たちがどのように変えられたか、ということを三つの面から話します。まず第一に、聖霊に満たされた結果、彼らは「大胆な人に変えられました」。

2章14節以下に、ペテロたちがエルサレムの群衆に対して語った言葉が記されています。その中でも注目すべきことは、23節に「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである」と。また32節には、「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである」とあります。

 

 そして、3章14節には、「あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である」。そして、その極めつけは、「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちあえりなさい」とまで言い、悔い改めを迫っています。実に大胆なことです。

 

 イエスが復活したということを宣べ伝えることは、ユダヤ教の宗教家たちにとってはタブー(禁句)でした。なぜなら、もし本当にイエスが復活したのなら、自分たちはメシア(救世主)を十字架にかけて殺してしまったことになるからです。ですから、墓守に金を与えて「イエスの遺体は弟子たちが盗んでいった」と言わせたほどでした。それにも関わらず4章33節では、「使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした」。のです。

 

 イエスが捕らえられたとき、自分たちにも迫害の手が迫るのを恐れていた弟子たちが、どうしてこのような大胆なことが言えたのでしょうか。それは言うまでもなく聖霊に満たされたからです。そして彼らはこの福音のために命がけで伝道したのです。わたしたちも聖霊の力を受けたら、このように大胆にイエスを証しするようになります。

 

 第二に、ペンテコステの結果、弟子たちは愛の人に変えられました。2章44節には「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」とあります。また4章32節には、「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた」とあります。つまり、この教会に集まっていた人たちが共同生活をはじめたのです。

 

 この人たちのなかには経済的に豊かな人もあり、またクリスチャンになったために職を失い、日々の生活にも困窮を覚える人たちもいましたが、彼らは持ち物を共有にして共同生活をしたのです。たくさんの物を持ってきたからといって威張る者もなく、また貧しいからといって卑屈になることもなく共同生活をすることができたのは、彼らが聖霊に満たされたからです。4章34節には「彼らの中には乏しい者は、ひとりもいなかった」とあります。これは愛の共同体です。

 

 ガラテヤ書5章22節には「御霊の実は、愛…」とあります。どんな人でも御霊に満たされたら愛の人に変えられます。まだ「損だ得だ」と言っている人は愛がないからです。昔、有島武郎(明治時代の小説家)という人は、「惜しみなく愛は奪う」という小説を書きました。それはエゴ(自我)の愛だからです。それに対してロシアの文豪家トルストイが「愛は惜しみなく与える」と言ったのは有名です。これはイエスの十字架の愛のことです。イエスはわたしたちの罪を贖うために死に、最後は血の一滴まであたえ尽されたのです。 

 彼は「戦争と平和」「アンナカレーニナ」「復活」などの作品を書いた人として有名です。

 

 最後は、「すべての人に好意をもたれていた」とあります。これは教会に集う人々が仲良く、愛の共同生活をしているのを見て、町の人々から好意をもたれたのです。その結果、「一日に三千人の人たちが仲間に加わった(入信した)」とあります。わたしたちの信仰も独善的な信仰であってはなりません。家族の人たちからも、町の人たちからも好意をもたれるような信仰でありたいものです。

 

 コリント後書3章2節「すべての人に知られ、かつ読まれている」とありますが、この世の人たちのは知らないふりをしていても、わたしたちのこと(クリスチャンであること、日曜日に教会に行っていることを)、案外と知っているものです。ですから、いつ、どこから見られても誤解をされないような生活をしていることが大切です。

 

 ある高齢のご婦人が、礼拝に来られなかったので、珍しいこともあるものだ、と思っていましたら、夕礼拝に来られました。その方は「先生、今日は驚きました。朝少し体調がすぐれなかったので、夕礼拝に行こうと台所で窓を開けて洗い物をしていたら、前の廊下を通った女性が、ちらっとこちらを見て、「あら、今日は日曜日ではなかったのかしら」と独り言のように言って通り過ぎました。その方とは同じアパートに住んでいても、廊下をすれ違う際に、会釈をするぐらいの関係なのに、自分がいつも日曜日に教会に行っているのを知っていた、と言って驚いていました。

 

 先日、神学校から帰るのが遅く、新神戸に着いたのが夜の九時過ぎでした。そこで駅前からからタクシーに乗りました。「下山手8丁目に行ってください」と言いますと、「はい分かりました」と車を発車してくれましたが、暫くすると、「トーホーのところを下におりたらいいですね」と言いますので、「はい、真っ直ぐに下りてください」と言うと、「山手教会でいいですね」と言われて驚きました。

車を降りるときに、「山手教会でよくお客さんを降ろされますか」と聞きますと、「はい、山手教会で降りる方は、みな品のいい方ですね」と言われて、わたしは嬉しくなりました。わたしは何も言わなくとも山手教会の人間だと知られていたことよりも、「山手教会の人たちは、みな品のいい方たちだ」と言われたことのほうがはるかに嬉しかったです。

 

          (201605.15