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2016年3月20日



神殿の幕が真っ二つに裂けたわけ




『昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。…イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った、「まことに、この人は神の子であった」 』。

(マルコ福音書15章39節)

 

 

 今日は「棕櫚の聖日」と言ってイエスがエルサレムに入場された日です。そのとき群衆は棕櫚の葉を手にして、「ホサナ、ホサナ」(いまわたしたちを救ってください、という意味)と言って歓迎したのです。それで「棕櫚の聖日」と言われるようになりました。しかしこれはイエスの受難のはじまりで、十字架にかかるための入場だったのです。

 

 木曜日はエルサレムで弟子たちと最後の晩餐をされた後、郊外のゲッセマネの園で最後の祈りの時をもたれましたが、それは「血の汗がしたたる」ような祈りでした。その後、ユダに導かれた大祭司長の手の者に捕らえられました。そして大祭司カヤパの庭に連行されましたが、彼らの宗教裁判では死刑はないので、ローマ帝国に対する国事犯(国家の政治的秩序を侵害する犯罪)として、ローマの総督ポンテオ・ピラトの手に委ねたのです。ポンテオ・ピラトはイエスが罪にするようなものでないことを思っていましたが、群衆の「十字架につけよ」と叫ぶ声に負けて死刑を宣告したのです。

 

 そして、彼らはイエスをエルサレムの郊外のゴルゴダの丘で十字架に掛けたのは朝の9時でした。群衆は十字架のイエスに「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」と散々、嘲り罵りましたが、イエスは最後まで一言も弁明することなく沈黙を守られました。イエスはあれだけの奇跡を行った人ですから、十字架から下りることなどなんでもないことです。しかしイエスの来臨の目的は十字架に掛かり、人類の罪の贖いを完成することですから、イエスは自分の義(正しさ)に死にきられたのです。

 

 もしイエスが十字架から下りられたらユダヤ人たちはイエスを信じたかもしれませんが、それではイエスの義は明らかにされても、贖いは完成されません。そこで神の目的の完遂のために十字架に掛かって死んでくださったのです。

 

 ところが昼の十二時になると全地は暗くなって三時に及びました。そして三時にイエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれました。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。そして、イエスが息を引き取られたそのときに、「神殿の幕が上から下まで、真二つに裂けた」のです。これは意義ある象徴的な出来事でした。つまりイエス・キリストの十字架の死をとおして人類の罪の贖いが完成したことが示すことで、どんな人でも「はばかることなく」(遠慮することなく)、神に近づく道が開かれたということを意味しているからです。

 

 神殿は「聖所」と「至聖所」に分かれており、その間には幕がありました。そして聖所は人々が神を礼拝するところで、幕の内側の至聖所は神の臨在するところで、だれも入ることができません。ただ大祭司が一年に一度だけ入ることが許されていたのです。そしてヘブル書9章8節には「前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している」とあります。その隔ての幕が裂かれたことによって、イエスの十字架の贖いが完成したのです。

 

 また10章19節には「わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった、新しい生きた道をとおって、はいっていくことができるのである」とあります。つまりイエスの死によって神殿の幕が真二つに裂けて、これまで入ることができなかった至聖所にはばかることなく入り、神と親しくまみゆることができるようになったのです。

 

 人類の始祖であるアダムとエバが神に背いて罪を犯して以来、神と人間とのあいだに越えることのできない深い断絶ができてしまいました。そのために神に近づくことができなくなってしまいました。その深い淵をイエスの死をとおして、つまり十字架の贖いという橋を掛けて、神に近づくことができるようにしてくださったのです。

 

 ヨハネ福音書14章6節の「わたしは道であり…だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことができない」とは、こういう意味なのです。よく「宗教はみな同じである。富士山に登るのに、吉田口から登っても、御殿場口から登っても山頂に到達することはできる」というようなことを言う人がいますが、それは決して正しい考え方ではありません。キリスト教では、神に近づくためには「わたしは道である」と言われたイエス・キリストという道を通らなければならないからです。そしてこれ以外に道はないのです。

 

                  (20163.20