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2016年2月28日

姦淫の女とイエス

 

『女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」』。(ヨハネ福音書8章11節)

 

 イエスがエルサレムに入られたことにより、ユダヤ教の指導者や律法学者、パリサイ人たちとの衝突が最高潮に達しました。それは、これまでは自分たちが人々から崇められ、尊敬されていたのに、イエスの出現によりその立場が逆転してしまったからです。

 

 そこで彼らはいイエスを陥れようと考え、姦淫の場で捕らえた女性をイエスのところに連行して、この女性を律法のとおりに石を投げつけて殺してもいいか、その是非を求めてきたのです。これは大変困難な問題でした。何故なら、もし律法のとおりに石を投げつけて殺してもいいと答えたら、「いつも愛だ、慈悲だと教えていたのに…」と人々の心はイエスから離れていくに違いありません。また、その反対に「かわいそうだから赦してやれ」と答えたら、「あなたはユダヤ人なのに律法を無視するのか」と迫られるからです。

 

 彼らがこのようにイエスに迫ったのは、律法を愛するからではなく、イエスに対する妬みのためでした。箴言14章30節にも「妬みは骨の腐りなり」(文語訳)とありますが、妬み心は冷静な判断をすることができないばかりか、感情的になって自分自身を滅ぼしてしまいます。ですから、わたしたちも妬み心があるならば、御霊によって聖別していただかなければ、恵まれたクリスチャンにはなれません。

 

 イエスが返答に困ったと考えた宗教指導者たちは盛んにイエスを攻撃しました。そこでイエスは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」といわれました。ところが、「彼らは年寄りから始めてひとりびとり出て行った」のです。さすが彼らは宗教家です。イエスから「罪のないものが…」と言われたとき、自分はこの女のような罪ではなくとも、同じ罪びとであることに気がついたのです。そしてだれもこの女性を審くことができなかったのです。

 

 マタイ福音書7章に『人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてくださいと言えようか』とあります。つまり罪人であるわたしたちが人を審くことはできません。わたしたちも同じ罪人ですからその資格はないのです。ただあるとすれば、罪が赦されたものとして人を赦すだけです。人の罪を赦していないで「主の祈り」を祈るときに、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と、どうして祈ることができますか。

 

 だれもこの女性を審くことはできませんでしたが、イエスは神の子で、一点の罪のない方ですから、イエスから審かれることは覚悟していました。ところがイエスは、「女よ、みんなはどこにいるのか。あなたを罰する者はなかったのか」と声を掛けられたので、言いました。「主よ、だれもございません」。するとイエスは『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』と言われたとき、彼女の頑なな心は氷解してしまったのです。そして悔い改めて生まれかわり、イエスの信者となり、イエスが十字架にお掛かりになったとき、最後まで従う者となったのです。それは赦されたからです。人を悔い改めて救うのは審きではなく赦しです。赦されてはじめて目が覚めて本心に生まれ変わるのです。

 

 ヤコブ書2章13節に『あわれみは、さばきにうち勝つ』とありますが、彼女もイエスの憐れみ(愛)に溶かされて悔い改めたのです。その反対に子供でも「またお前はこんなことをして…」と叱ってばかりいると、子供は悪いことを隠すようになります。

人を救い、正しい道に導くのは厳しい指導だけではなく「愛と赦し」です。赦されてはじめて本心に立ち返るのです。

 

                       (20162.28