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2016年2月14日

満ちあふれる喜び

 

『わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである』。(ヨハネ福音書15章11節)

 

 最初に「わたしがこれらのことを話したのは」とありますが、14章から16章まではイエスが十字架にお掛かりになる前に弟子たちに語られた決別の説教のことを言っているのです。

 

 さて、あなたの人生に喜びがありますか。また毎日の生活が喜びに溢れていますか。

クリスチャンの生活は、毎日この喜びに溢れた生涯なのです。それは、罪が赦され、御霊に満たされているからです。ところが多くの人にはこの喜びがなく、毎日不安で暗い顔をしています。それは自分の中に本当の喜びがないからです。

 

 箴言14章13節に「笑う時にも心に悲しみがあり、喜びのはてに憂いがある」とあります。これは心が御霊に満たされていないから、なにかいいことがあって喜んでいても、それはしばらくで、すぐに憂いになってしまうのです。ところが、イエス・キリストのみ救いにあずかったとき、御霊によって真の喜びがあたえられます。

 

 ヨハネ福音書16章20節には「あなたがたは憂いているが、その憂いは喜びに変わるであろう」とありますように、この喜びは心の底からこんこんと湧き出るような喜びです。

 

 この世の人々は、何故このように喜べないのでしょうか。それは魂の底に罪、汚れのヘドロがたまっているからです。そのヘドロを取り除くなら喜びがこんこんと湧いてくるのです。

 

 山陰の地方の教会に赴任した牧師が、その教会の庭に古い井戸がありましたので、それを使おうと考え井戸の蓋を開けました。そして暗い底を見ようと蝋燭に火を灯して針金に縛って中におろしてみましたら、火は消えてしまいました。長い間使われていなかったので、中は酸欠状態になっていたのです。そこでバケツにロープを結び付けて水をかい出しはじめたら、真っ黒になった腐ったような水が出てきました。しばらく繰り返していると底がみえてきましたので、再び蠟燭をおろしてみたら、こんどは火は消えなかったので、もう大丈夫だと梯子を下ろして底に下りてみました。底には真っ黒なヘドロが溜まっていたのでそれを取り除いたら、白い綺麗な白砂が見えて、その下から水がこんこんと湧いていましたので、もう大丈夫と上にあがりました。数日後に井戸の中を覗いてみると、綺麗な水が満々とたたえてありました。それを先生は喜んで使ったそうです。

 

 こんな素晴らしい井戸に、なぜ水が湧いていなかったのでしょうか。それは長いあいだ使われていなかったので、ヘドロが溜まり底を塞いでしまっていたからです。わたしたちも長いあいだ神から離れて罪や汚れのままにしておくと、魂の底がヘドロに塞がれ、喜びが湧いてこなくなってしまいます。そんなときには魂の底岩を砕き、ヘドロを取り除くなら喜びがこんこんと湧いてくるのです。

 

 柘植不知人先生もこんな聖霊体験をなさいました。それは1915年(大正15年)10月10日のことでした。堺の組合教会での御用を終えて大阪の梅田駅まで帰ってきましたが、列車の発車時間の11時59分まで、一時間ほどあったので、駅の裏通りにでて神を崇めて祈りながら、また讃美をしながら歩いていたとき、にわかに上から大きな力が先生を覆いました。それはバケツ一杯の水を頭の上からぶっ掛けたような感じだったそうです。

 

 すると喜びが心の底から湧き溢れて、抑えてもおさえきれず、ゲラゲラと笑いが溢れ出て、抑えきれないような不思議な体験をされたのです。これが柘植不知人先生の聖霊体験でした。列車のいちばん後ろの座席で壁に背を向けて座り、やっとの思いで神戸の自宅に帰ってこられました。

 

 しかし、その夜は喜びに満ち溢れて、一晩中「至聖所」と呼んで、いつも祈りの部屋としていたところで、神をほめ讃えて過ごされたそうです。そして昼間の疲れで少しうとうとと眠っていたとき、驚くような幻を見られました。それは先生が壇上で説教をしておられる幻で、その前には幾千万の群衆が泣き倒れている光景でした。これを見たとき、「これはやがて起こるリバイバルの光景である」と示されたのです。

 

 そして柘植先生は、この幻のごとく全日本的リバイバルの器として神から尊く用いられました。そしてこの幻はただ幻に終わりませんでした。その頃「東京で500名以上の聴衆が集まる集会をする人は、救世軍の山室軍平と落合の柘植不知人だ」と言われていたそうです。

 

                       (20162.14