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2016年2月7日

イエスの霊的力の充電のとき

 

『イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた』。(ヨハネ福音書6章15節)

 

 このところは、イエスが山に登って神と交わり、霊的力の充電をされたところです。

同じ場面をマタイ福音書では「そして群衆を解散させてから、祈るためにひそかに山に登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」(14章23節)とあります。

 

 どんな人でも、働き詰めでは疲れ果ててしまいます。休息のときが大切です。わたしたちクリスチャンも神と交わり、魂に霊的力を充電するとき、力強く生きることができるのです。宗教改革者のマルチン・ルターは、「忙しければ忙しいほど、多くのときを祈りに費やさなければならない」と言いましたが、これは有名な言葉です。それは忙しいときは魂が疲れやすく、霊的赤信号のときだからです。ですから、忙しいときほど静まって祈るときを大切にしなければなりません。どんなに力のある人でも、霊的力の充電を怠ったら無力になってしまいます。

 

 イザヤ書40章31節に『年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはってのぼることができる。走っても疲れることはなく、歩いても弱ることはない』とあります。若いからと言って力は無限ではありません。無理をすると倒れてしまいます。また壮年、つまり働き盛りの人でも同じです。それは自分の力を過信して無理をするからです。

 

 しかし、「主を待ち望む者は新たなる力を得る」とありますが、この「主を待ち望む者」とは神と交わり、祈る人のことです。このようによく祈る人は霊的力を充電しますから、いつも霊的力に満たされているのです。よい働きをする人はよく祈る人です。

みなさんもよく祈って力強い人生を送ってください。

 

 詩篇84篇7節に『その心がシオンの大路にある人はさいわいです。彼らはバカの谷を通っても、そこを泉のある所とします。・・・彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神にまみえるでしょう』とあります。この「シオンの大路」とはエルサレム街道のことです。エルサレムの宮に詣でる巡礼者はこの道を通って神殿に近づきました。つまり、いつでも神の臨在に近づく人はさいわいです。その人は力強い人生を歩むことが出来るからです。また「バカの谷」とは、文語訳聖書では「涙の谷」とありました。つまり人生の涙の谷を通されても神に近づくならば、そこを「泉のあるところ」、つまり神の慰めのあるところに変えられるのです。ですから神の臨在に近づくことは大切です。

 

 ある人は、「教会は製紙工場のようなところだ」と言いました。古新聞、古雑誌が集められて製紙工場に運ばれます。そして機械を通して新しい再生紙となり、再び社会に出されるのです。わたしたちの魂も一週間の働きでくたびれて古新聞のような状態になっても、教会に来て神を礼拝しているうちに聖霊がわたしたちの魂を潔めて、あたらしくされるのです。そうすれば「走って疲れることなく、あるいても弱ることがない」人生を歩くことができるのです。

 

 造船所に定期的に遠洋航海をした船舶がドックに入ります。それは長い航海の間に船底についた貝殻を取り除くためです。きれいに取り除かれたら水の抵抗が少なくなり少ない燃費で走ることができるのです。ところが、そのままにしておくと、その貝殻が水の抵抗となり、多くの燃費を必要とするのです。わたしたちの礼拝生活も神の前に近づき礼拝生活を大切にしている人は、魂が潔められていますから「力から力に進み」とあるような力強い人生がおくれるのです。

 

 昔、大西洋上の船舶で二人の牧師が出会いました。お互いに初対面でしたがその服装で分かりましたので挨拶をしました。一人はアメリカの大都会の牧師で、もう一人は田舎で伝道をしている牧師でした。大都会の牧師は相手が田舎の教会の牧師と知ったので、少し得意になり自分の教会の大きさや、いろんなところから招かれて忙しくご用をしている様を得意になって話しました。それを田舎の教会の牧師は少し淋しげに聞いていましたが、相手の話がようやく終わったので言いました。「あなたは、そんなに忙しく働いていて、いったいいつ静まるのですか」と。すると、その牧師は「はっ」として口をつぐんでしまったそうです。それから自分の教会に帰って反省し、今まで以上に一所懸命に祈る牧師となり、これまで以上に神に用いられる牧師となったそうです。

 

                (2016.2.7