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2016年1月17日

イエスとニコデモの対話

 

『イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。…イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」。肉から生れる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」』。(ヨハネ福音書3章3節)

 

キリスト教は「新生」する宗教です。どんな人でもイエス・キリストを信じて救われたら神の子と生まれ変わるのです。これは神の絶大な恵みです。そのためイエス・キリストが十字架に死んで、われわれの罪の贖いを完成してくださったのです。

 

 ここはニコデモとイエスが対話をしたところです。この人はユダヤ教の指導者で格別な地位のある人で、厳格なパリサイ派の教師でした。またサンヒドリンの議員でもあり、ユダヤ人の間では人望のある人でした。ですから「夜イエスのところにきた」とあるように人目を避けてひそかにイエスに会いに来たのです。

 

 ニコデモの質問の内容は、後のイエスの答えからして、おそらく「どうしたら神の国に入ることができるか」という質問だと推察されます。そこでイエスは「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と答えられました。ところがニコデモはイエスの言葉の真意を理解できなくて、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。と。これはユダヤ教の指導者らしくないニコデモの勘違いです。

 

 そこでイエスは再び、「だれでも水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」と答えられました。この水は洗礼のことです。また霊とは聖霊のことです。つまり洗礼を受けて聖霊に満たされたら、新しい人に生まれ変わるのです。イエスもヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。「そのとき聖霊が鳩のごとくくだった」とあります。

 

 では、なぜ人は生まれ変わらなければならないのでしょうか。それは人間が罪人だからです。神が創造された当初の人間(アダム)は、「神のかたちのごとく創造された」とあります。そして人類の始祖アダムとエバはエデンの園を管理することを任されましたが、二人は神の命に背いて、「これだけは食べてはならない」といわれた禁断の実、(善悪を知る実)を食べてしまったのです。すると二人の目が開けて自分たちが裸であったことを知ったのです。それでいちじくの葉を腰に巻いたのです。つまり罪のないときは裸であっても恥ずかしいとも思いませんでしたが、智恵がつき羞恥心に目覚めたのです。そしてエデンを追放されました。

 

 その結果、人類は罪人となったのです。そして「原罪」をもつものとなり、生まれてくるものは、みな罪をもって生まれてくるのです。ですから人類はお互いに争いあい、平和に生きることを知らないのです。ローマ書1章23節に「不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである」とあります。つまり「神の像のごとく創造」された人間が、鳥や獣や這うものと同じようになったと言うのです。よく「人間は万物の霊長だ」といいますが、それは神が創造された当初のことで、罪に汚れた人間は、鳥や獣や這うものと同じだというのです。

 

つぎに、ローマ書3章10節以下に『義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない』とあります。これが罪人の姿です。こんな状態では神の国に入ることはできません。なぜなら、神の国は聖なる所で、罪が贖われた聖徒しか入ることができないところです。

 

この罪の中にある人類を救うために子なる神、イエス・キリストがこの世に来られ、十字架にかかって死に、われわれの罪の贖い(身代わり)となってくださったのです。そしてイエスがニコデモに言われた「新しく生まれ変わる」とは霊的新生です。わたしたちも水と聖霊とによって生まれ変わることができるのです。

 

 このニコデモはこのときからイエスのよき理解者となり、イエスのことで紛争が生じたとき、ニコデモが弁護をしています。(ヨハネ福音書7章50節)。またイエスが十字架上で息を引き取られたとき、ニコデモは「没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた」とあります(19章39節)。つまり、あの3章でのイエスとの出会い以来、イエスに対する理解と尊敬の気持ちをもっていたと思われます。                (2016.01.17