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2016年1月3日



水をぶどう酒に

 

『料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったところにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた』。
     (ヨハネ福音書2章10節)

 

 

 今日からしばらくヨハネ福音書をとおして教えられたいと導かれています。このヨハネ福音書はイエスの生涯を書いた四つの福音書の一つで、その著者はイエスの弟子の一人dであるヨハネで、この他にも、ヨハネ第一の手紙とヨハネ黙示録の著書でもあります。

さて、これは婚宴の最中にぶどう酒がなくなるという不祥事が起こったときに、イエスが水をぶどう酒に変えて奇跡を行い、その家の窮地を救ったところです。

 

 カナはナザレから13キロほど北にある小さな町で、婚宴の家はイエスの母マリヤの妹の家で、そのためにイエスの母マリヤが手伝いにきていたのです。ところが婚宴の最中にぶどう酒がなくなり、その家は大変慌てました。こんな不祥事はないからです。

 

 そこでマリヤはそこに来ていたイエスに「なんとか窮地を救ってくれ」と頼んだのです。すると、そこに使った後、きれいに洗った水がめがあったので、それに水を入れるようにしもべらに命じ、しもべらもそのようにしたので、水がぶどう酒に変わる奇跡を起こして窮地を救ったのです。何故、こんな奇跡が起こったのでしょうか。

 

  まずマリヤの信仰です。彼女は困ったときにイエスにありのままに話して救いを求めました。そこでイエスが助けられたのです。詩篇50篇15節に『悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう』とあります。われわれも困ったとき、主に助けを求めることのできる人は幸いです。

  きれいに洗われたかめがあったからです。もし使ったままにしておけば、とっさのときに間に合いません。主がお用いになる器は、いつでも潔められた器です。テモテ後書2章21節に『自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる』とあります。これを文語訳聖書では『潔められて、主のように適い』とあります。神は「聖なる神」ですから、潔められた器を尊く用いなさるのです。ですから、われわれも主のお声が掛かったとき、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」(イザヤ書6章8節)と、いつでも提供できるような潔められた状態でありたいものです。

  しもべたちの行動です。彼らはイエスに命じられるままにかめに水を入れましたが、「四、五斗もはいるかめ六つ」とありますから、これは相当な量になります。でも、しもべたちは何の疑問をいだかずにイエスの言葉に従いました。しかも「口のところまでいっぱいに入れた」とあります。だから奇跡が起こったのです。

  いちばん大切なことは、その場にイエスが招かれていたことです。われわれもいろんな思いがけない事件に遭遇することがあります。でも、イエスが共におられるなら、即座に解決してくださいます。詩篇16篇8節に『わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない』とあります。この「主をわたしの前に置く」とは、いつも神と一緒にいるという意味です。そうすれば「主がわたしの右にいますゆえ」とありますが、この右とはいと近くにおられるという意味です。そして「動かされることはない」、これは動揺しないということです。思いがけない事件に遭遇しても、主が共にいてくださるなら動揺するようなことはありません。この一年、神とともに歩みましょう。

                           (2016.01.03