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2015年11月8日

 

 

モーセの執り成しの祈り

 

『モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば―。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。』

             (出エジプト記32章32節)

 

 

 最近は旧約聖書の祈りシリーズとして話をしていますが、今日は「モーセの執り成しの祈り」について話します。その祈りはイスラエルの民が偶像礼拝をしたとき、神の怒りに触れましたが、モーセが身命を投げ出して執り成しの祈りをしたことです。

 

 エジプトのゴセンの地を出た民はシナイ半島を南下して三ヶ月目にシナイの荒野に到着し約1年間滞在しましたが、その間にイスラエルの民にとって大切な二つのことがありました。一つは、神から「十戒」を授受したこと。もう一つは「神の宝の民」とされたことです。

 

 ところが、モーセがシナイ山から下りてこないのをみて、「あのモーセはどうなったかわからないから」、「わたしたちに先立つ神(導く神)を与えてくれ」とモーセの兄アロンに言いました。そこでアロンは民から金の装身具を集めてそれを鋳て、金の子牛を造って与えたので、民はそれを祭って大騒ぎをしました。その喧騒がシナイの山深くまで響きましたので、それを聞いた神は民に対して怒り、「彼らを滅びつくそう」とされたのです。

 

何故なら、つい先程、民に対して十戒を与えたばかりで、そのなかに「刻んだ像を造ってはならない。…それに仕えてはならない」とあったのに、民は早速に偶像を造って礼拝しようとしたからです。そこでモーセは、「わたしに免じて民の罪を赦してください。もしかなわなければ、書き記されたふみから、わたしの名前を消し去ってもかまいません」と、自分の身命を投げ出したのです。

 

この「あなたの書き記されたふみ」とは「いのちの書」のことで、聖書のいたるところに出てくる言葉です。イザヤ書4章4節に『生命の書に(名が)しるされた者は、聖なる者ととなえられる』とありますが、これは罪が赦された聖徒の名前が記されたものです。つまり天国の戸籍のようなものです。

 

またヨハネ黙示録20章12節には『かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた』とあります。これはキリストの審判のときのことです。聖書に「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル書9章27節)とありますが、死は100%の確率であるばかりか、死んだ後、キリストの審判の座に立たされることも確実なことです。しかし、この審判は罪人に対する審きであって、われわれは「善かつ忠なるしもべよよくやった」と報いを受けるときです。

 

そして、このとき二つの書が開かれて審かれるのです。この「かずかずの書」とは、人間の一生涯の行状を書かれたものです。イエス・キリストを信じて救われた以前の生涯は罪人の生涯でしたから、こんなものを開かれたら大変です。でも有り難いことにイザヤ書1章18節に「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」とあります。これはつまり罪のないもの、つまり、これまでの生涯が白紙になるというのです。ですから罪贖われた聖徒はなんら恐れなくキリストの御前に立つことができるのです。

 

つぎに開かれる「いのちの書」は、罪が贖われた聖徒の名が記された書物で、この書に名前が記された者が神の国を継ぐのです。ヨハネ黙示録21章27節に「はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである」とあります。この「はいれる者」とは新天新地のことで、そのありさまは、次章の22節に書いてあります。

 

また20章15節には「このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」とあります。この「火の池」とは、平たく言えば地獄のことで、永遠の滅びを意味します。ですから、神に背き、罪を犯して、この名が消されないように気をつけなければなりません。

 

さて、モーセの祈りは、「この命の書からわたしの名前を消し去ってもかまいませんから、わたしに免じてイスラエルの罪を赦してください」と身命を投げ出した祈りだったのです。詩篇106篇に「しかし、主のお選びになったモーセは、破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして滅びを免れさせた。」とありますが、この詩篇はこのときのことを歌った詩です。                          (201511.8