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2015年8月2日

 

 アンテオケの教会で

 

『ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった」(使徒行伝10章34節)

 

 

 このところは、バルナバとパウロがアンテオケで伝道し、はじめて「クリスチャン」と呼ばれるようになったいきさつが書かれたところです。ステパノの殉教を契機にエルサレム教会が大迫害を受け、「使徒以外の者はことごとく、ユダヤ、サマリヤとの地方に散らされて行った」とありますが、これがサマリヤのリバイバルとなりました。

 

 また、他のグループは「ピニケ、ケプロ、アンテオケまでも進んで行った」のです。

そしてアンテオケで伝道をした結果、「信じて主に帰依するものの数が多かった」とあります。そこでエルサレム教会はバルナバをアンテオケに遣わしました。バルナバは、「聖霊と信仰に満ちた立派な人」であったので、「主に加わる人々が大ぜいになった」のです。

 

 そこで、バルナバはパウロを迎えて一緒に一年間伝道した結果、町の人々はこの教会の人々のことを「クリスチャン」と呼んだのです。これが「クリスチャン」という言葉が使われた最初です。それは教会に出入りする信者たちの真面目な、清い生活態度をみて尊敬して言われたのです。ですからこれは名誉なことでした。ですからわたしたちもクリスチャンと呼ばれることを誇りにしたいものです。またそのような信仰者でありたいものです。まかり間違っても「あれでもクリスチャンか」と言われないように気をつけたいものです。

 

 プロテスタントの中に「メソジスト」という教派がありますが、この名前もまた外部の人から尊敬して呼ばれた名前です。ジョン・ウェスレーがオクスフォード大学で学生伝道をして出来たグループで、彼らの真面目で几帳面な態度をみて、他の学生たちが彼らの生活態度を尊敬して、メソード(几帳面)という意味でつけられたのです。

 

 コリント後書3章2節には『わたしたちは…。すべての人に知られ、かつ読まれている』とあります。これはわたしたちはクリスチャンの生きざまは「自分はクリスチャンだ」と名乗らなくてもすべての人から見られている、という意味です。ですから神の栄光が現れるような生きかたをすることが大切です。

 

 いつも礼拝を休んだことのない高齢の人が珍しく礼拝を休んだので心配していましたら、夕拝に出てきて「先生、どうしてわたしが教会に行っているのを知っていたのですかね」、といいますので話を聞きますと、朝、体調がすぐれないので礼拝を休んで、台所で洗い物をしていたら、前の廊下を通っていた同じアパートの住民が、その人の姿をみて、「あら、今日は日曜日でなかったのかしら」と言って通り過ぎたのです。そのつぶやきのような声を聴いてその女性は驚いたそうです。いつも廊下ですれ違っても会釈をする程度で、名乗り合ったこともないのに、どうして自分が教会に通っているなんて、知っていたのか、「先生、驚きました」と。世のなかの人は、わたしたちがクリスチャンで教会に通っているなんて、案外知られているのです。

 

 先日、こんなことがありました。新神戸駅に着いたのが夜の9時過ぎだったのでタクシーに乗りました。運転手に「下山手8丁目に行ってください」と告げましたら、しばらく車を走らせていた運転手が「トーホーのところの信号を左に曲がればいいですね」と言うのです。わたしは「下山手8丁目」と言っただけなのに、どうして知っているのか不思議に思いました。そこで「信号を曲がったら、ずっと下におりてください」というと「はい、山手教会でいいんですね」と返事をしたのでまた驚きました。どうしてわたしの行き先を知っていたのでしょうか。少し気味がわるい気持ちになりました。

 そこで下車するときに、「山手教会によくお客さんを送りますか」と聞きますと、「はい。でも山手教会に入って行かれる方は、みな品のいい方ですね」と言われてわたしは嬉しくなりました。素晴らしい証しですね。みなさんが近所の人たちに「わたしはクリスチャンです」「日曜日は教会に行っています」と言わなくても、案外と知られているのです。クリスチャンの生涯は『身においても、魂においても、神の栄えを現すべし』というみ言葉がありますが、神の栄光のためのに生涯ですから、聖霊のお力に満たされて恵まれた生活をしてください。

                    2015.8.2