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2015年6月14日

 

 

アナニヤとサッピラの事件

 

 

『「どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いていた人々は、みな非常なおそれを感じた』。

                            (使徒行伝5章4節)

 

 

このアナニヤとサッピラが神に打たれて死んだ事件は、ペンテコステの日に聖霊に満たされて恵まれた教会の人々の信仰に水を差すような出来事でした。前回にも話したように初代教会の人々は愛の心に満たされて、自分の持物を持ち寄って共同生活をしていました。ところが、4章36節をみると、「バルナバと呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた」(寄付をした)のです。

 

 それを見たアナニヤとサッピラという夫婦も、資産を売りましたが、その一部だけ持ってきて寄付をしました。これだけなら、なんら問題にはならなかったのに、全部を献げたかのように偽ったのです。これは「自分たちもバルナバのように熱心だ」と、人々に思われたかったのです。これは彼らの虚栄でした。ガラテヤ書5章26節に『虚栄に生きてはならない』とありますが、これはクリスチャンがいちばん気をつけなければならないことです。

 

 ガラテヤ書6章7節『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない』とあるように、わたしたちは人を欺くことができても、神を欺くことはできません。なぜなら神は「隠れたことを見ておられる方」だからです。昔、ウォーターゲイト事件がありました。これはアメリカのホワイトハウスの盗聴事件でした。はじめ大統領は「盗聴はしていない」と国民の前で言明していましたが、盗聴が判明したとき、「大統領は嘘をついた」と言われて任期の半ばで辞任をしてしまったのです。

 

 アメリカはキリスト教の精神文化を土台とした国です。ですから嘘はその人の信用を失ってしまいます。日本では「嘘も方便」と言って、比較的に寛大なところがありますが、アメリカではその人の信用を失うのです。

 

 以前、古い歴史のある老舗料理店の偽装が明らかになり、閉店に追い込まれた事件がありました。その発端はプリンの賞味期限の改ざんが明らかになったためでした。その後も、牛肉の産地偽装が発覚したり、お客の食べ残した料理を使いまわしした、と従業員からの内部告発で暴露され、世間の批判にさらされて閉店してしまったのです。

 

 キリスト教の神は「隠されたことを見ておられる神」です。ですから人を欺くことができても、神を欺くことはできません。ですからクリスチャンは人が見ていなくても、陰日向のない生き方をするのです。

 

 あるとき町で、母親が子供に「人が見ているからしてはいけない」と窘めている光景をみたことがありますが、人が見ていても、見ていなくても「いけないことはいけない」と教えなければなりません。そうでないと、人が見ていなければいい、ということになります。

 

 あるクリスチャンホームに二人の男の子がいました。一人は小学校1年生、もう一人は学齢期前のこどもで、いつも仲良く遊んでいる兄弟でした。ところがある日、お兄ちゃんがプラモデルの飛行機を買ってきて、それを組み立てて遊んでいました。ところが弟は、自分もそれで遊びたくて、お兄ちゃんに頼みましたが、「お前は壊すからだめだ」と言って、どんなに頼んでも貸してくれません。

 

 ある日、お兄ちゃんが学校から帰って引き出しを開けて遊ぼうとすると、プラモデルが壊れているのです。そこで弟を呼んで「これを壊したのはお前だな」と言いましたが、弟は「ぼくは知らない」と、いくら尋ねられても認めないのです。そこでお兄ちゃんが「お前、神様の前に出ても知らないと言えるか」と言うと、しばらくもじもじして弟は「兄ちゃんごめん」と言って自分の非を認めたのです。

 

 その子供たちのやり取りを見ていたお父さんは「教会学校の教育はすごいですね」と感激して話してくれました。この子供たちも小さいときから教会学校に通い、「神様は隠されたことを見ておられる」ということを教えられていたからです。

 

 伝道の書12章1節に『あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ』とありますが、若いときから教会に連れてきて、信仰に導かれることは大切です。その人の人生のバックボーンが育てられるからです。昔から「鉄は赤いうちに打て」といいますが、若い時に神を信ずる信仰をもつなら、その人の人生の大きな力となるからです。教会に来ても子供はなにも分からないようですが、臨在に近づけば「聖霊は皮膚からでも入る」とは、バックストン先生の有名な言葉です。多少騒いでもいいです。小さいときから教会に連れて来ることが大切です。

201506.14