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2015年5月10日

 

 

ハンナの涙の信仰

 

『シロで彼らが飲み食いしたのち、ハンナは立ちあがった。その時、祭司エリは主の神殿の柱のかたわらの座にすわっていた。ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた』。(サムエル記上1章10節)

 

 

5月の第2日曜日は母の日です。そこで先週と今日にわたって聖書の中に登場する信仰の母についてお話します。このところは「ハンナの涙の祈り」です。そして彼女の涙の祈りに神は答えられました。それは涙を流すほどの真剣な祈りだったからです。

 ハンナは子供に恵まれませんでしたので、なんとか子供に恵まれたいと毎日、シロの宮に登って神に祈りました。『ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って激しく泣いた』とあるような真剣な祈りでした。


 ところが、ハンナの祈りを見た祭司が、もう祈り疲れて唇だけが動くだけで声が聞こえないような様子を見て、酔っているのだと誤解をして「神殿の中で酔っぱらうとは何事か」と注意をしました。ところがハンナは「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。はしめを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言って(祈って)いたのです」。と答えましたので、その真相を知った祭司エリは、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。と言われましたので、ハンナの顔には悲しみがなくなりました。そして生まれた男子がサムエルでのちにイスラエルのなかでも有名な祭司となり、イスラエル王国の建設のために貢献したのです。つまり神はハンナの涙の祈りに答えられたのです。詩編6章9節に『主は、あなたの泣く声を聞かれた』とありますが、神は涙を流すほどの真剣な祈りに答えてくださるのです。

 さて、次にアウグスティヌスの母モニカの祈りについてお話をします。このモニカの祈りもまた涙の祈りでした。アウグスティヌスは4世紀の西方教会(ローマ・カトリック教会)の最大の教父といわれ、その思想と信仰は今でもローマ・カトリック教会でも、プロテスタントでも支持されています。そして最後はヒッポの監督にまでなりました。

 そのアウグスティヌスは若い時に神から離れて享楽的な生活に浸り、熱心なキリスト教徒のお母さんを悩ましました。また彼は当時の新興宗教であるマニ教に入りましたので母モニカは彼が悔い改めて神のもとに帰るようにと祈りました。そしてある日、教会で祈っていたとき、神父がその様子を見て、「子供は必ずあなたのところに帰ってきますよ、涙の子は滅びないと言いますから」と励ましたのです。その言葉に勇気を得ていよいよ熱心に祈りました。しかし、その祈りが応えられたのはアウグスティヌスの34歳のときでした。

 彼の修辞学の成績はいつも首席でしたが、いくら学んでも精神的には空しさを覚えていました。修辞学とは「人を説得する術で、相手に感動を与えるように、最も有効に表現する方法を研究する学問」です。(広辞苑)

 マニ教に問題を感じ、修辞学にも虚しさを覚えるようになったアウグスティヌスは、ローマに赴きました。そこでカトリック教会の神父アンブロシウスに出会い、彼の父のようにおおらかな歓迎態度に接し好感を抱いたのです。そして師の説教の姿勢とその人柄、また生活態度を通してアウグスティヌスに決定的影響を与えたので、キリスト教に魅かれていったのです。

 32歳のとき、ミラノの庭園で劇的な出来事が起こりました。彼は庭に出て木陰に身を寄せていたとき、隣家の庭で遊んでいた子供たちの清らかな声が聞こえてきました。「取りて読め、取りて読め」。これを聞いたとき、彼は急いで部屋に入り聖書を手にして開いたところが、ローマ書13章13節のところでした。そこには『宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない』とありました。彼の心は震え、やがて静まり、そしてやがてほのかな光と平安が彼の心に差し込んできたのです。そしてキリスト教に入る決心をしたのです。これがアウグスティヌスの劇的回心のときでした。そして「わが魂は、神の懐に憩うまで安きはない」という後世に残る有名な言葉を残しています。

 そして34歳の復活歳の日にアンブロシウスによって洗礼を受けました。これをいちばん喜んだのは言うまでもなく母モニカでした。「涙の子は滅びない」という言葉が現実になったのです。しかし母モニカはそれから9日目に天に召されました。まさしく母モニカの一生は、アウグスティヌスの回心のために捧げられた生涯でした。

 その後、彼は38歳のときにヒッポの祭司に叙任され、43歳のときにヒッポの監督に目任じられました。そして77歳のとき、に天に召されました。彼は「神の国」と「告白録」という有名な著書を残しています。

               (2015510