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2015年5月3日

 

 

モーセの母の信仰

 

『レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。しかし、もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂を塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた』。

              (出エジプト記2章1節)

 

 

 五月の二週目は母の日です。そこで今日と次週の日曜日の二回にわたって、聖書の中に登場する信仰の母についてお話します。母の日は今では日本でも、一般的に年中行事になっていますが、その始まりはアメリカのヴァージニア州のウェブスターのメソジスト教会が始まりでした。その教会で26年間も日曜学校の教師を勤め、多くの子女を育成した篤信のアンナ・ジャーヴィス夫人が亡くなって、教会で記念会が開かれたとき、その娘のアンナが霊前にカーネーションの花束を飾り、参列者に配ったことから、百貨店王ワナメーカーが1908年に「5月の第二日曜日を母の日として守ること」を合衆国議会に提唱して全米に広まりました。そして日本には大正期に入ってきて教会で守られてきましたが、今では国民的事業となりました。聖書に「あなたの父と母を敬いなさい」(出エジプト記20章12節)とありますが、母を敬い、感謝することは素晴らしいことです。

 

 さて、今日はモーセの母の信仰についてお話しをしますが、モーセは今から3500年ほど前に実在した人物です。彼は当時エジプトで奴隷になっていた同胞を救い出して彼らの故国イスラエルに導いた偉大なる指導者です。そのモーセも40歳まではエジプトの王宮のなかで、パロ王の娘の子として育てられてきたので、自分はエジプト人だと思っていましたが、ある日、乳母から自分が川から拾い上げられたときにくるんでいた毛布を見せられ、そのマークからはじめて自分がイスラエルの民であることを知り、民族の自覚をもったのです。そして同じ同胞が奴隷として厳しい使役にあるのに、王宮の中で安閑としている自分に耐えられず、王宮を出てミデアンの砂漠で素朴な遊牧民となったのです。そして80歳になったとき、神はモーセを、奴隷の民を救出するという重大な使命を与えたのです。

 

 モーセが誕生した頃のイスラエルは長い間エジプトの奴隷でした。しかし、厳しい使役にも関わらずイスラエルの民の数が増えるので、それを恐れたパロ王は民に対して厳しい命令を下したのです。それは、「出産したとき男子なら、その場で首を締めて殺してしまえ」と助産師に命令をしましたが、彼女たちは神を畏れる女性でしたから王の命令に従いませんでした。そこで王は、今度は民に対して直接に「男子が生まれたら、ナイル川に流せ」と命じたのです。そんなときにレビの家に男子が誕生しました。

 

 ところが、その麗しいのを見て母親は王の命令に従わず、テントの中に隠して育てました。しかし、三月ほどして赤子の鳴き声も大きくなり、これ以上隠しきれなくなったとき、その子をナイル川に流すことにしました。これは悲しい決断でした。葦で舟を作り、その外側に「樹脂とアスファルト」を塗って舟を沈まないようにして、その中に赤子を入れて川に流しました。これは、どこかに流れ着き、だれかに拾い上げられることを期待していたからです。そして、その赤子の姉に、その葦の舟の行く先を追わせました。

 

 舟は静かに川をくだり、川に水浴びをしにきていたエジプトのパロ王の娘が遊んでいるところにたどり着きました。王女はそれを拾い上げ、その麗しいのを見てイスラエル人の子供であることはわかっていましたが、自分の子として王宮の中で育てることにしました。

 

 モーセの母は、もう自分の手に負えなくなったとき、彼女が川に流したのは神の手に委ねたのです。それは葦の舟に「樹脂とアスファルト」を塗ったことからもわかります。それは舟が沈まないようにしたのです。これがモーセの母の信仰だったのです。聖書に、『せん方尽きても、望みを失わず』(コリント前書4章8節 文語訳)とありますが、神を信ずる者は「どんなときにも、神がよくしてくださる」という希望をもちます。ですから、どんな場面に出会っても不信仰にはなりません。言い換えれば、「にっちもさっちもいかなくなっても、希望をもっていけば、神は必ず道を開いてくださいます」。

               (201553