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2015年3月8日

 

 

霊的力の充電のとき

 

『しかし、イエスは寂しい所に退いて祈っておられた』。

(ルカ福音書5章16節)

 

 

 今日はイエスの祈りについて話します。誰でも、どんな人でも祈ることはします。しかし、何か願い事をすることが多いのですが、クリスチャンの祈りは神との霊的交わりのときです。そして神と交わり、神から霊的力(聖霊の力)を受けるときです。

 

 イエスが群衆から離れて一人寂しい所に退かれたのは、神から霊的な力を受けるため(充電するため)でした。そして力に漲った働きをすることができたのです。若いからといっても限界があり、そのままでは疲れてしまいます。ですから恵まれたクリスチャンは、霊的力の充電のときを大切にします。

 

 よく話しますが、車にはバッテリーが搭載されています。そしてエンジンを始動するときは、そのバッテリーの働きが大切です。ところがバッテリーばかり使っていると電気がなくなって始動することが出来なくなります。その点、車はうまくできていて、エンジンの回転を利用してまた発電をし、その電気をバッテリーに充電するので、バッテリーはいつも電気で満ちているのです。そのように、わたしたちも、いつも神に近づいて祈り、霊的力に満たされて力ある働きをしたいものです。

 

 イザヤ書40章31節『年若い者も弱り、かつ疲れる。壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない』。

 

 ここの「主を待ち望む者は」とは、神に祈って神と交わることです。そのような人は霊的力を受けているから、「走っても疲れることなく、あるいても弱ることはない」のです。いつも力に漲って力強く活躍することができるのです。

 

 宗教改革者のマルチン・ルターは「忙しければ、忙しいほど、多くのときを祈りについやさなければならない」と言いましたが、忙しいときは心の危険信号です。多忙の「忙」は「心が滅びる」と書きます。ですから、忙しい人ほど神に近づいて祈り、霊的力の充電をすることが大切なのです。

 

 あまりもの忙しさに腹を立ててイエスに文句を言った人があります。それはベタニヤ村のマルタです。ある日、突然にイエスと弟子たちがマルタ、マリヤの家を訪問しました。そこで姉のマルタは客人をもてなすために台所で働きました。一行13名をもてなすために働きましたが、疲れて心を取り乱してしまいました。そこで、ふとわれに返って気がつくと、妹のマリヤがいないのです。わたしだけに忙しくさせて、と妹を捜すとイエスの足元に座って、恍惚とした顔をしてイエスの話を聞いているのです。その姿を見たときマルタは腹を立てて、イエスに文句を言ったのです。「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」と。妹に言うのならいざしらず、イエスに文句を言ったのは見当違いです。

 

 そこでイエスは「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」と言われました。わたしたちも、霊的力によるのでなく、肉の元気でするなら疲れ果てて失敗してしまいます。

 

                   (201538