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2015年3月1日

 

 

愛には恐れがない

 

『イエス・キリストがある町におられた時、全身思い皮膚病になっている人がそこにいた。

イエスを見ると、顔を地に伏せて願っていった、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病がただちに去ってしまった』。

(ルカ福音書5章13節)

 

 

 今日はイエスの愛について話します。イエスが町に入られたとき、一人の重い皮膚病の人が癒しを求めてきました。するとイエスは手を伸ばして彼にさわり祈られました。そして病気はいやされたのです。しかし、何気ない文章ですが、これはイエスの愛が語られたというところです。

 

ヨハネ第一の手紙4章18節には『愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く』とありますが、イエスの愛は全き愛でしたから恐れなかったのです。その後にまた『恐れる者には、愛が全うされていないからである』とあります。どうかわたしたちも神から聖霊による愛を受けて、どんな場合でも恐れなく人々を愛せる人になりたいものです。

 

 柘植不知人先生の奥様にこんな話があります。柘植先生の行方不明になっていた妹さんが見つかり、、兵庫区の荒田町の自宅に迎えました。ところが、その妹さんは結核の第三期で大変危険な状態でした。そして二階をその妹さんの部屋と決めてお世話をすることにしましたが、柘植奥様も自分の布団を二階に持って上がり、妹さんの横に敷いて、文字通り起居を共にしてお世話をされたのです。

 

 そして、妹さんが食べ残した物を、妹さんが見ている前で食べられました。それを知って柘植先生が「そんなことをして病気が移ったらどうする。御霊の常識を弁えなさい」と注意しても、奥様は、「こんなことを恐れていたのでは、妹の魂を救うことができません」と言って聞かなかったそうです。

 

 こんな状態ですから、ときどきヒステリーを起こして暴れることがありました。そんなときに柘植不知人先生が抑えつけようとしても男の力でどうすることもできない状態でした。ところが柘植奥様が「もうおやめなさい」とひとこと言うと、「はい」とおとなしくなったそうです。また柘植奥様が病気になり入院されたとき、柘植先生が外から帰ってこられたら、妹がなにか一所懸命にお祈りをしていました。そこで先生は「何を祈っているのか」と聞くと、お姉さんはわたしのために良くしてくれているので、お姉さんの病気が早く良くなるように神様にお祈りしていました」と答えたと言うのです。それを聞いて先生は「こんな妹でも人の愛は届くものだ」と教えられた、と語っておられました。

 

 ある日、車を運転しながらラジオを聞いていると、宮城まり子さんという人が対談をしていました。この人は歌手である時期、一世風靡していましたが、ある時期からあまりテレビにも出て来ないと思っていましたら、実は自分の財産全部を投資して肢体不自由児のために「ねむの木学園」という施設を作っていたのです。その働きが認められて「ペスタロッチ教育賞」(スイスの教育者、故事、民衆教育に生涯を捧げた人の賞)を得ています。

 

 その対談のなかで、とても明るい子で、日曜日毎に両親が面接に来るのを楽しみにしていました。ところが、ある時期から面会に来なくなりました。そこで調べてみると、両親が借金のためにサラ金に追われ、車のなかで排気ガス自殺をしていたのです。ある日、その少年があまりにも言うことを聞かないので腹を立てた職員がつい、「いくら待っても、あんたの両親は来ないわよ」と言ってしまったのです。

 

 それを聞いた少年は自分は親に見捨てられたと思い、ますます自暴自棄になり、職員も手がつけられなくなりました。そんなある日連休で自宅に帰ることのできる子供は帰り、また職員も休みをとり、宮城まり子さん一人で数人の子供の世話をすることになりました。そこでお昼になったので、子供たちのリクエストを募ったところが、「ラーメンが食べたい」と言うので、厨房に入りました生僧ラーメンはなく、乾麺のうどんがあったので、うどんでラーメンを作りました。子供たちは「わーい、うどんラーメンだ」と喜んで食べてくれましたが、その少年もよだれを丼のなかに垂らしながら食べていました。

 

 ところが半分ほど食べたところで、食べるのをやめてしまいましたので、「もういらないの」と聞くと「うん」と言いましたので、その子の見ている前で食べたそうです。少年のよだれが入っているラーメンは決して美味しいとは思いませんでしたが、いまこの少年が見ている前でこれを食べなければ、この少年の心を開くことができないと思い、最後のスープまで飲み干しました。すると側でじっと見ていた少年が宮城さんの腕をぐっとつかんで、部屋を出ていきました。「正直あのときのラーメンは少しもおいしいとは思いませんでしたが、いまここでこの食べ残したラーメンを食べなければこの少年の心を開くことはできない」と必死の思いで食べたと話していました。それ以来、その少年は宮城さんの言うことだけは素直に聞くようになったそうです。

 

 こんな話があります。家庭訪問のシーズンになり、ある女子教師が一軒の家庭を訪問したとき、その家の玄関にかけてある色紙を見て、「お宅はクリスチャンですか」と聞きましたから、お母さんが「はい、日曜日には家族皆んなで教会に行っています」と答えましたら、教師は「それでわかりました」というので「どうかしましたか」と聞きましたら、「先日こんなことがありました」と先生は語ってくれました。

 

 その日、朝から一人の女子生徒が気分わるそうな顔をして授業を受けていました。そして何か堪えているような様子でした。ところが二時間目の授業のときに堪えきれなくなって、いきなり吐いてしまったのです。机の上から床一面汚物が飛び散り大変なことになりました。生徒たちは「汚い…」と言って教室の隅に逃げました。

 

 こんなとき片づけるのは教師ですから、若い先生は「嫌だなぁ」と思っていましたら、一人の女子生徒が教室の後ろに積んである新聞紙を持ってきて、泣いている生徒に[なにも心配しなくていいからね」と声を掛けて、平然と机の上から、床一面を綺麗に吹き出したのです。先生はそれを見ていて、大人の自分ができないことをこの生徒が何気ない顔をして掃除しているのを見て、この生徒はどんな家の子供だろうと興味をもった、というのです。

 

 そして教師は、この家を訪問して玄関に掲げてある聖書の言葉を見て頷けたそうです。

わたしはその話を聞き、「よくそんなことが出来たね」と話しますと、「だって、誰かがしないといけないから」とさり気なく答えてくれましたのが、とても印象的でした。この生徒は成人して、今はある牧師夫人として主人に仕え、神に仕えております。

『愛には恐れがない。全き愛は恐れをとり除く』。わたしたちも神からの聖霊による愛を受けて恐れなく人々を愛する者となりたいものです。

 

                   (201531