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2015年2月22日

 

 

直ぐに従った

 

『シモン・ペテロは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」そしてそのとおりにしたところが、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった』。

(ルカ福音書5章5節)

 

 

 このところは、イエスがゲネサレ湖畔(ガリラヤ湖)で漁師たちに弟子となるように声をかけられたところです。ところがペテロは「わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」といい、お言葉に従って漁をしたところが、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになったのです。

 

 彼らはプロの漁師です。その漁師が夜通し働いたのに一尾も獲れなかったのに、こんなに大漁になったのは、彼らがイエスの言葉に従ったからです。何故、素直に従うことが出来たでしょうか。それはイエスの側で網を繕いながら話を聞いていて恵まれたからです。どんな人でも魂が恵まれれば素直に従うことができますが、恵まれないと「なんだかんだ」と理屈を言います。ヤコブ書1章12節に、『みことばを受け入れなさい』とありますが、わたしたちも素直な心になってお従いしたいものです。また、マタイ福音書4章22節には『すぐ舟と父とをおいてイエスに従った』とあります。わたしたちも神のみ声を聞いたとき、直ぐに従うなら恵みを受けるのです。

 

 使徒行伝8章26節には、ガザ街道でエチオピアの宦官を救いに導いたピリポのことが書いています。彼はサマリヤで伝道をして素晴らしい栄光を拝した人でした。ところが神はそのピリポにガザ街道へ行けと命じられました。そのガザはあまり人の通らない裏街道のようなところです。そんな所に行くよりもサマリヤで伝道をつづけたほうが、栄光が現れると思いましたが、彼は神の御声にしたがいました。

 

 そこでピリポは、エルサレムで礼拝してエチオピアに帰ろうとして道中にあったエチオピアの宦官に出会ったので、彼を信仰に導いたのです。そして宦官は国に帰り熱心に伝道して、エチオピアがキリスト教国になったと言われます。このようにガザ街道での素晴らしい出会いは、ピリポが神の御声にすぐに従ったからです。もし躊躇していたら、相手も馬車で移動をしていたから出会うことができなかったかも知れません。

 

 また創世記22章にはアブラハムが神の御声にすぐに従ったところがあります。それは彼が百歳にしてやっと与えられた息子イサクを、神はモリヤの山(今日のエルサレムのあるところ)で、燔祭としてささげよと言われたのです。燔祭とは、供えられた動物を殺して、祭壇で全部焼いて神にささげるという儀式です。これはアブラハムにとっては残酷な命令でした。これは神の本心ではなく「神はアブラハムを試みて」とあるように、彼がどこまで神を畏れているか試みられたのです。

 

 ところがアブラハムは「朝早く起きて」(直ぐに)、御声に従ってモリヤの山に出掛けたのです。これがアブラハムの信仰です。もし出発を一日延ばししてぐずぐずしておれば、サタンの声が聞こえて従えなくなったかもしれません。このアブラハムの態度をご覧になって、神はイサクの代わりにささげる一等の雄羊を供えられたのです。彼は「主の山に備えあり」と言って神に感謝しました。

 

 わたしがまだ若いころのことでした。ある機関紙の編集を徹夜でしていましたら、夜中に教会員から電話があり、「今、医者に聞いたら、○○さんは今晩がやまだろう、と言うことでした」と伝えてくれました。そこで、もう少しで編集が終わるので、それを片付けてから移行と机の前に座りましたが、気持ちが落ちつかないのです。それで編集をやめて車でその方の家に駆けつけました。

 

 奥の部屋に病人は寝かされていましたが、脳溢血特有の症状のゴーゴーと大きなイビキをかいていました。その回りを親戚の人たちが取り囲み、今わの際(臨終)を待っているようでした。わたしはその枕元に座り、「○○さん、教会から来ましたよ」と声をかけると、まったく意識のない人が、一瞬息を止めて首をわたしの方に向ける仕種をしました。そこで「これからお祈りをしますからね」と言い、頭に手を置いて祈りました。

 

 そのときの祈りは病気を癒してください、という祈りではなく「この方をいま平安の裡にあなたの御許(みもと)に召してください」といった祈りでした。そして最後に「今日、われ汝と共にパラダイス(天国)にあるべし。アーメン」、と祈り終えたその瞬間に、その人の息はパタンと止まり、息を引き取ったのでした。あまりにも厳かさに驚きました。そして、「この先生、この人を祈り殺した」と言われないかと心配しましたが、しばらく静寂の後、親戚の人が「この人、先生の来られるのを待っていたんだな」と言われてほっとしました。そのときわたしは教会員からの電話を受けたときに直ぐに駆けつけて来てよかったと思いました。

                      (2015222