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2015年2月15日

 

 

いっさいを捨てて

 

『すると、イエスがシモン(ペテロ)に言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った』。

(ルカ福音書5章10節)

 

 

 このところは、イエスがゲネサレ湖畔(ガリラヤ湖)で漁師たちの弟子となるように声をかけられたところです。群衆がイエスの話を聞こうとして押し寄せてきたので、イエスは舟の中から教えられました。その後でその舟の持ち主に、「沖にこぎだし、網を下ろして漁をしてみなさい」と言われたのです。

 

 そのときシモンは、「わたしたちは夜通し働きました、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」といい、お言葉に従って漁をしたところが、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになったのです。

 

 彼らはプロの漁師です。その漁師が夜通し働いたのに一尾も獲れなかったのに、こんなに大漁になったのは、彼らがイエスの言葉に従ったからです。何故、素直に従うことができたのでしょうか。それはイエスの側で網を繕いながら説教を聞いていて恵まれていたからです。どんな人でも、魂が恵まれれば素直に従うことができますが、恵まれないと「なんだかんだ」と理屈を言います。ヤコブ書1章12節に『み言葉を素直に受け入れなさい』とありますが、わたしたちも素直な心になってお従いしたいものです。

 

 旧約聖書のサムエル記にメピボセデという人物が登場します。彼はイスラエルのサウル王の孫ですが、サウルが戦死してダビデ王の時代になったとき僻地に身を隠したのです。それはサウルがダビデを迫害していたので、こんどは新しい為政者ダビデの復讐が一族に及ぶことを恐れたからです。

 

 ところがダビデはサウル王の息子ヨナタンに大変世話になり、身の危険が及んだとき幾たびもダビデを庇って助けてくれました。そこで、ヨナタンも戦死していたので、その忘れ形見を捜し出してその恩に報いようと考えました。そして僻地で息をこらして隠れていたメピボセデを捜し出したのです。ダビデはメピボセデに使いを寄こして「エルサレムに来るように」と招きましたら、彼は素直にエルサレムに来たので、「王の子の一人のように」迎えられたとあります。

 

 さてここからは、この春から献身を志して神学校に進む二人のために話します。まず、漁師たちに「弟子となるように」と召しを受けた時、彼らは「いっさいを捨ててイエスに従った」のです。マタイ福音書には「すぐに舟と父とをおいて、イエスに従った」(4:22)とあります。これは、もう後には戻らないという決意です。

つまり「背水の陣」になってイエスに従ったのです。

 

 また列王記上19章21節にはエリシャが預言者エリヤの弟子になるところがあります。彼は十二頭の牛を使っていたほどの裕福な百姓のようでしたが、預言者の召命を受けた時、「くびきを焼いた」のは、もう再び百姓には戻らないという決意です。これもエリシャの「背水の陣」だったのです。

 

 「背水の陣」とは、二千年ほど前の、中国の史記という歴史書の中に出てくる話で、漢の韓信が逍を攻めたとき、わざと川を背にして陣をとり、味方に決死の覚悟をさせて、大いに敵を破った、という故事です。つまり、一歩も退くことのできない絶対絶命の立場で、失敗すれば再起することが出来ないことを覚悟して、全力を尽くして事に当たることです。「失敗したり、うまくいかなかったら、また元に戻ればいい」といった気持ちでは命がけで従うことができません。

 

 少し柘植不知人先生の経験を話します。1915年(大正4年)1010日は、柘植不知人先生が聖霊のバプテスマを受けられた日です。それは先生が徹底的聖潔を求められて勝利をされた後のことです。その前日、先生が住んでおられた兵庫区荒田町で一斉の大掃除が行われました。(最近はあまりみかけなくなりましたが、昔は季節の行事でした)。

 

 この日は、どの家も家財道具を庭に出して日光消毒をし、また畳をパンパンと叩いて騒々しいものでしたが、今は掃除機の時代になりましたので、畳を叩く光景は見られなくなりました。

 

 一仕事終えて二階から外を眺めていると、どの家もたくさんの家財道具が庭に出されていましたが、それに比べて自分の家は必要最低限の家具しかなく、先生は「神に従う献身の生涯とはこんなものか」と、少し寂しい思いになっておられたとき、庭の隅に風呂敷包みがあるのに気がつきました。

 

 なにが入っているのかつらつらと考えたとき、気がついたのは、売薬の株(許可書)と、ある高貴の筋から拝領した木杯、そして絵画の道具でした。先生は献身したときに未信者時代の物はみな捨てた筈なのに、どうしてこんなものが残っていたのか考えたとき、もし伝道者を辞めたときは、また画を描けばいいという魂胆があることに気がついたのです。そこで、金槌をもって庭に出て、風呂敷包みの上から叩き壊してしまいました。つまり、もう後には戻らないという決心、「背水の陣」になられたのです。

 

 そのときの心境を次のように話しておられます。「このとき、わたしの心の中には言い尽くすことのできないような喜びと感謝に満たされていくのを感じました」。また「たとえ人為的に優れた道があっても、神の言葉と討ち死にすることを選ぼうと決心した」と言っておられます。そして、「このときからわたしの心の中には、ただ殉教あるのみだ、との覚悟が定まり、すべてをささげて壇上の生涯となった」と。

 

 翌日は、警官ミッション堺部の組合教会で集会をもちましたが、聖霊の働きが著しく臨在が輝き、説教が終わらないうちに全会衆に罪の意識がおこり、泣き叫び、戦慄して椅子から転び落ちる者まであり、最後には全会衆が悔い改め、救いを叫び求める光景は物凄いものだった、と書いてあります。

 

 堺の組合教会の御用が終わり梅田駅まで帰ってきましたが、列車の発車時間の午後1155分までの一時間、駅の裏通りを、神を崇めて祈りながら、また讃美をしながら歩いていたとき、にわかに上から大きな力が先生を覆いました。それはバケツの水を頭の上からぶっ掛けられたような感じだったそうです。

 

 すると喜びが心の底から湧き溢れて、抑えてもおさえきれず、ゲラゲラと笑いが溢れ出て抑えきることができないような不思議な経験をされたのです。これが柘植先生の「聖霊のバプテスマ」でした。列車に乗るときもハンカチで口を覆い、群衆に顔を向けられないような状態で、列車のいちばん後ろの座席で壁に向かって座り、やっとの思いで神戸の自宅に帰ることができました。

 

 聖霊のバプテスマを受けて以来、聖書を読めばみ言葉が驚くほどに光を放ち、すべての真理が示されて、読めば読むほど主の断腸のみ思いが内に燃えたのです。そのために山に入っては祈り、人のいないところでは叫び、全くキリストの愛に占領される自分をしみじみと感じられたのです。

 

                      (2015215