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2015年1月25日

 

 

良い地にまかれた種

 

『良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである』。

          (マタイ福音書13章23節)

 

 

 昨晩は少し興奮をしてよく眠れませんでした。それは昨日インターネットで「坊向輝國」を検索したところ、坊向輝國の項目がいつもどおりに出てきましたが、その中に、今までみたこともない項目を発見しました。それはわたしが出した説教集が二冊オークションに売り出されていたのです。一冊は「震われざる国」、もう一冊は「レバノンの香柏」でしたので、それを見て驚きました。しかも、「震われざる国」は五百円の値がつき、他の「レバノンの香柏」は千円、楽天市場では千九百八十円の値がついてセリにかかっていました。これらの説教集は五百冊ずつ印刷して、山手教会の教会員と活水の群の皆さんに差し上げた非売品でしたが、こんな値がついて売り出されているのには驚きでした。

 

 ところがもう一つ、大変な項目を見つけてしまったのです。それは60年ほど前の大学時代に書いた論文が、国立国会図書館に収蔵されているのを発見したからです。それは大学4年生のときに、法学部には卒業論文はなかったので、自分の4年間の勉強の集大成をしたいと思っていたとき、法学部の学内懸賞論文を募集していたのです。そこで卒論のつもりで応募したら、入選してしまったのです。そして法学部の「法学会誌」に掲載されました。これはわたしにとっては名誉なことでした。

 

 その論文の題は「初代キリスト教徒の国家権力服従思想」という長い題でしたが、これを書いたことが神学校に進む動機となったのです。この論文を見た国際法の教授が、「卒業したらどうするのかね」と聞かれたので、「もう少し勉強したいと思います」と答えましたら、教授は大学院に残るものと思われ、政治学の教授を紹介してくださいました。「この先生は京都大学を定年退職してこれられた方で、まだ弟子がいないからこの教授に仕えていたら将来の道が開かれる」という推薦でした。そこでわたしは、大学に残る道を選ぶべきか、神学校に進む道を選ぶべきか、一瞬迷いましたが、もう少し聖書の勉強をしてみたいと、キリスト教史を深く勉強したいという思いが強く、神学校に進む道を選びました。その推薦をしてくださった教授が卒業後に「坊向はどうした」と問われたので友人が、「東京の神学校に行きました」と答えたら、「せっかく道をつけてやったのに」と残念そうに言われたと聞きました。

 

 この献身の契機になった論文が、60年後の今ごろ世に出てくるなんて、しかも国立国会図書館に収められ、その目次に「初代キリスト教徒の国家権力服従思想」坊向輝國と出ているなんて驚きでした。そんなことで昨晩は興奮してよく眠れませんでした。

 

 さて、今日はイエスの「種まきの譬話」です。そしてこの種はイエス・キリストの福音です。これはどんな土地にまかれた種が良い実を結ぶのか、譬えで語られたのです。パレスチナの種まきは大雑把で、腋にざるを抱えて放り投げるようにしてまくのですが、上手な人は平均してまけるそうです。それでもとんでもない方向に行ってしまうこともあり、この譬えはそんな、背景で語られています。

 

 まず道ばたに落ちた種は根を下ろす間もなく鳥に食べられてしまった、と言うのです。それは道は普段から人に踏まれ固くなっているので根を下ろすことができなかったからです。これは最初から受けつけようとしない頑固な人間の心の状態です。また素直に受け入れられない人です。「キリスト教は外来の宗教だ」と言った偏見をもった人は、どんなに素晴らしい福音に接してもその恵みから漏れてしまうのです。(因みに、仏教もインドから中国を通って日本にやってきた宗教のはずですが)。

 

 

 柘植不知人は「偏見は人を殺す」と言われましたが、人を殺すどころか自分自身を滅ぼしてしまいます。また、イエスを十字架に掛けて殺したのもユダヤ人の偏見でした。わたしたちは偏見を捨てて福音を素直に受け入れる者でありたいものです。ヤコブ書1章21節に『心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある』とあります。ですから、わたしたちも素直な心になって、み言葉を受け入れる者でありたいものです。

 

 次に、「石地にまかれた種」です。『石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう』とあります。

 

 この石地とは、感情的な人の心の状態で、なにかあると直ぐに喜びますが、何か困難、試練、迫害に遭うと、直ぐに信仰の火が消えてしまう人のことです。聖会や研修会などに行って恵まれてきても、直ぐに信仰の火が消えてしまうのは根がないからです。大切なのは信仰の根をしっかり下ろすことです。感情的な信仰ではなく、しっかりと「キリストに根ざし」たクリスチャンになることが大切です。

 

 イエスが昇天されたとき500名がそれを見送りました。ところが120名はエルサレムに留まって待ち望みの祈り会をしましたので、その人たちに聖霊が降臨したのです。これがペンテコステです。

 

 ところが残りの380名の者は恵まれて、早速伝道をしましたが、いろいろな困難、迫害に遭遇したとき彼らの信仰の火は消えてしまったのです。それは根を下ろしていなかったからです。ですから、わたしたちも、しっかりイエス・キリストに根を下ろしたクリスチャンになりたいものです。

 

 「いばらの中に落ちた種」は、いばらが成長するほどですから、比較的いい土地に違いありません。とろこがある程度成長すると、いばらに塞がれてそれ以上に成長しなくなったと言うのです。22節に『いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである』とあります。

 

 これは世の付き合いに忙しい人のことで、このために信仰の腰が落ちつかない人のことです。世の人との付き合いも大切ですが、もっと大切なのは神との付き合いです。なぜなら、この世の人との付き合いはこの世限りですが、神との付き合いは死後も永遠にお世話にならなければならないからです。

 

 最後に「良い地にまかれた種」は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶというのです。この良い地とはよく耕された土地です。そして素直な心、清められた人の心の状態です。

 

 キリスト教は「潔めの宗教だ」といわれていますが、これは潔められた心の状態、潔められた生活を求められているのです。それは「あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(レビ記19章1節)とあるように、神は「聖なる神」であるから、その神を信ずる者たちにも聖なる生きかたを求められるのです。ですから、わたしたちも常に神の臨在に近づき、聖霊によって潔められて聖なる者とされたいものです。

 

                  (2015125