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2015年1月11日

 

 

赦し合いなさい

 

『もし互いに責むべきことがあれば、赦し合いなさい。主もあなたがたを赦して下さったのだから、そのように、あなたがたも赦し合いなさい』。

              (コロサイ書3章13節)

 

 

 今日は「赦し」についてお話しますが、まずマタイ福音書18章21節以下に、イエスは譬え話で語っておられます。その導入はペテロがイエスに対して「兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか、七たびまでですか」と質問をしたときでした。それに対してイエスは「わたしは七たびとはいわない。七たびを七十倍するまでにしなさい」と答えられたのです。

 

 この「七たびを七十倍するまでゆるせ」とは四九〇回赦せと言われたのではなく、「どこまでも赦せ」と言われたのです。ペテロが「七たびまで」と言ったのは、パリサイ人たちは「三どまでは赦せ」と教えていたので、少し多めに言ったにすぎません。そしてイエスはこの譬え話を通して、「赦された者は、また赦す者」になるように語られたのです。

 

 譬え話は、ある人が王から1万タラントという莫大な借金をしていましたが、期限が過ぎても返されなかったので王から厳しく責められたのです。そして「もし返せないのなら自分の妻子たちを奴隷に売ってでも返せ」と迫られたのです。そこでこの人は王に哀願したので、王は哀れに思って借金を全部ゆるしてやったのです。

 

 その人は王のところから帰る途中で、百デナリを貸して、まだ返していない人に出会ったので、その人を捕らえて首を締めて「借金を返せ」と迫り、返すまで獄に入れたというのです。それを聞いて王は、その人を呼びつけ、「悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ、わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」と立腹したというのです。

 

 前掲のみ言葉に『もし互いに責むべきことがあれば、赦し合いなさい。主もあなたがたを赦して下さったのであるから、そのようにあなたがたも赦し合いなさい』とありますが、これはわたしたちの赦し合いの根拠です。つまり「主もまたあなたがたを赦して下さったから」、互いに赦し合うのです。

 

 わたしたちも罪人でしたが、イエスの十字架の贖い(身代わりの死)により、罪が赦されたものです。故に、赦すのが当然です。自分が赦されていながら、人を責めたり、人を審いたりすることはできません。ですから、わたしたちも赦された者として互いに赦し合う者でありたいものです。それが神のみ心です。

 

 次に、ルカ福音書23章34節『父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』と十字架の上で、いま自分を十字架にかけて殺そうとしている者たちのために、罪の赦しを祈っておられますが、これは最高の祈りです。わたしたちも、自分たちに敵する者たちのためにこんな祈りをする者でありたいものです。

 

 神学校を卒業したばかりの若い伝道者が小さな町の教会に赴任しました。教会堂は建っていましたが、集まる人も少なく最初から困難を覚えました。でも情熱をもってこの町の人々の救いのために一所懸命に祈っていました。夏の猛烈に暑いときに川原の橋の下で祈っていたとき、肥やしを積んで畑に運んでいた百姓が、橋の下にいる若者を見つけ、おれたちがこんな炎天下で働いているのに、橋の下で居眠りをしていると勘違いをして、荷車に積んでいた肥やしを下へぶっかけました。

 

 いきなり肥やしを掛けられた青年伝道者は、びっくりして上を見ると、百姓が下を覗いて笑っているのです。酷いことをすると怒鳴り返してやろうと思いましたが、肥やしの匂いがあまりに臭く、そのまま川に飛び込んでしまいました。身体を洗って川から上がったときには、その百姓は橋の向こうに消えていました。

 

 その若い伝道者は、「この町の人々の救いのために一所懸命に働いているのに…」と腹を立てていたとき、『父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』と、イエスの十字架上の祈りの言葉が示されました。そこで「あの百姓をお赦しください」という祈りに変えられたのです。この事件はだれも見ていない二人だけのことのはずでした。

 

 それから何カ月かしたころ、町の旧家のお嬢さんが病気になり、医者からも「余命いくばくもない」と宣言されるような状態になりました。そこでお兄さんが妹を不憫に思って「何かしてほしいことはないか」と言うと、妹は「では教会の先生を呼んできてほしい」という願いでした。旧家の格式のある家にキリスト教の牧師を迎えるなんて考えられないことでしたが、妹のたっての願いなので聞き届けました。

 

 牧師がその家を尋ねたところ、お嬢さんは布団の中に寝ていましたが、床から起きあがるなり、「先生、わたし見ていたんですよ。どうしてあんな酷いことをされたのに怒らなかったのですか」と言われ、はじめのうちは何のことか見当がつきませんでしたが、やがて真夏の炎天下の橋の下の出来事だと気づきました。

 

 そこで牧師は、「わたしもなんと酷いことをすると腹を立てましたが、イエスの十字架の上の『父よ、彼らをお赦しください…』との祈りに気が付き、自分も赦すことができました」と話しましたら、いたく感動したお嬢さんは、「これからもキリスト教のお話しをしにきてください」と依頼され、その家庭でふたりだけの集会が開かれるようになりました。そしてお嬢さんはイエス・キリストを信じて救われたのです。

 

 しかし、間もなく平安のうちに召されましたので、そのお嬢さんの最後の願いであった教会で告別式が営まれました。それから一ヶ月後の記念会の席でお兄さんが、「妹の布団の下に日記帳が見つかりました。その中にこんなことが描いてありましたので読みます。妹の気持ちがよくわかるとおもいます」と言って読みはじめました。

 

 それはお嬢さんがキリスト教に興味を持つようになった動機が書いてあるところでした。つまり橋の下の一件でした。ところがそれを聞いていた一座のなかのひとりの男性が、「ワーッ」と叫び声を上げて泣きだしました。そして「その犯人はわたしだ」と告白したのです。そしてそこにいた牧師に謝ったのです。その後、その人は教会に行くようになりクリスチャンになりました。

 

 この男性を救いに導いたのは、やはり「赦し」でした。もしあの日、若い伝道者が腹を立てて喧嘩をしていたら、この男性は救われることはありませんでした。しかし赦されてはじめて救われたのです。「赦す」ということは素晴らしいことですね。赦すということは人を救うということです。

 

 ヨハネ福音書8章に登場する「姦淫の場で捕らえられた女性」もイエスから「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と赦されたとき、この女性は悔い改めたのです。それは赦されたからです。審きは人を頑にしますが、赦しは人を救うのです。

 

                   (2015111