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2015年1月4日

 

 

わたしの愛の中にいなさい

 

『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい』。

                (ヨハネ福音書15章9節)

 

 

 この世でいちばん大事なものは愛です。聖書にも『このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である』(コリント前書13章13節)とあります。どんな人でも「誰かに愛されている」、また、「誰かを愛している」という自覚を持っているときに、希望をもって力づよく生きてゆくことができるのです。

 

 イエスは『わたしの愛の中にいなさい』と言われました。キリスト教は愛の宗教だと言われますが、それは「神の愛」と「イエスの愛」が注がれているからです。ヨハネ福音書3章16節に『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。人類を罪から救い、人々をしあわせにするために御子イエスをこの世に送ってくださったのです。

 

 そして、『神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである』(ヨハネ第一書4章10節)とあります。ですからクリスマスは神の愛が注がれた日です。

 

 またイエス・キリストは十字架にかかり、わたしたちの罪の身代わりとなってくださるために、この世に生まれてくださったのです。これがイエスの愛です。『主は、わたしたちのために(十字架にかかって)いのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った』(ヨハネ第一書3章16節)とあります。イエスが十字架に掛られたのは、わたしたちの罪の贖い(罪のつぐない)を完成するために身代わりとなって死んでくださったのです。

 

 どんな人でも、罪を犯した人はそれをつぐなわなければなりません。しかし人間はそれをつぐなうことはできません。そこで子なる神イエスが身代わりになって死んでくださったのです。イエスの十字架はイエスの愛でした。ですから、この十字架の贖いを信じる者は罪から救われるのです。これが十字架の贖いです。そしてイエスは、『わたしの愛の中にいなさい』と言われたのです。

 

 次に、神の愛とはどんな愛でしょうか。エレミヤ書31章3節に『わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた』とあります。つまり神の愛は「限りない愛」です。これはいつまでも変わらない不変的な愛です。人間の愛は時と場合によって変わってしまうことがありますが、神の愛は変わらず「いちどお前を愛する」とおっしゃればどこまでも愛してくださるのです。ときには人間が神に背き、背を向けるようなことがあっても神の愛は変わりません。そして、その人が立ち返るのを待っておられるのです。

 

 それに対して人間の愛は、どんなに固く誓っていても場合によって変わることがあります。こんな愛を信じていたら失望するだけです。ホセア書6章4節に『あなたがたの愛(人間の愛)は、あしたの雲のごとく、また、たちまち消える露のようなものである』とありますが、こんな儚い(あっけなくむなしいの意)愛を信じては失望するだけです。どんなことがあっても変わらない神の愛を信じて行くことが大切です。

 

 クリスチャン作家の三浦綾子さんの小説に「細川ガラシャ夫人」という作品があります。これは明智光秀の愛をとおして神の愛を表現しているのです。ストーリーは明智光秀の娘で細川忠興の妻になったガラシャ夫人の波瀾万丈の生涯を描いたものですが、その中に光秀の結婚にまつわる非常に感動的な場面があります。

 

 光秀は土岐家の出身で幼いときから神童と呼ばれるほど利発な子供でした。そして周囲の人々も彼の将来を嘱望していました。この光秀に幼い頃から親どうしで取り決めた許嫁(いいなずけ)がありました。相手は光秀より四歳年下で、妻木かげゆ左衛門の娘ひろこでした。

 

 群雄割拠の戦国時代は有力な大名と縁戚を持つということは、自藩が生き残るためには大切なことでした。そして光秀が18歳になったとき結婚することになりましたが、その直前にひろこが高熱に病み、ようやく熱が下がったときには、疱瘡であばたになっており、無残な姿になっていました。こんな娘をもらってくれるはずはありません。でも諦めきれない父は婚礼の日、妹の八重を替え玉にして送り出したのです。八重も姉に劣らぬ美人だったそうです。

 

 ところが、八重が返されてきたのです。替え玉がばれた父が愕然として、光秀から届けられた書状をよみました。そこには「余が許嫁せしは、おひろ殿にて、お八重殿では御座なく候。たとえ面変わりなされし候えども、余が契りたるはこの世にただひとり、おひろ殿にて御座候…」とありました。これを現代語にすると、「わたしの許嫁はおひろであって、八重ではありません。たとえ顔形が変わっても、わたしが結婚するのはおひろです…」といった意味でした。

 

 そこで父は、急いでひろこを輿に乗せて送り出しました。そして二人は結ばれて仲良く睦まじい夫婦となりました。そして二人の間に生まれた玉子が細川忠興の妻となりました。作者は、光秀に変わらない神の愛を投影したのです。

               (201514