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2014年12月28日

 

 

人生の大晦日

 

『そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている』。

               (ヘブル書9章27節)

 

 

 今年もあと数日で大晦日を迎えますが、その翌日には2015年という新しい年を迎えることができるので平安です。しかし、われわれにも人生の大晦日がありますが、その次のページがありません。その時には、前掲のみ言葉のように「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」とあるように、「キリストの審きの座」に立つのです。しかし、いのちの書に名がしるされているものは、その時を恐れることはありません。

 

 ヨハネ黙示録20章11節には『また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。…死んでいた者が、大いなる者も小さい者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。それはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることに従ってさばかれた』とあります。

 

 この「大きな白い御座」とはキリストの審判のことです。そしてみなキリストの審きの御座に立たされるのです。しかし贖われた聖徒は審きを受けるのではなく、「善かつ忠なる僕よ、よくやった」と報いを受けるときなのでなにも恐れることはありません。しかし、罪人には審かれるときなので死を恐れるのです。人間はなぜ死を恐れるのでしょうか。それは死んだら審かれるからです。

 

 このキリストの審判のときに二つの書物が開かれるとあります。

一つは「かずかずの書物」であり、もう一つが「いのちの書」です。この「かずかずの書物」はわたしたちの人生の行状が記された書物ですが、感謝なことに、わたしたちがイエス・キリストを信じて洗礼を受けたときに、これまでの生涯の記録が消されて、まったく白紙の状態になるのです。これがイエス・キリストの十字架による贖いです。

 

 イザヤ書1章18節に『たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅(くれない)のように赤くても、羊の毛のようになるのだ』とあります。つまり、どんなことをしても消すことのできないような罪でも、イエスの十字架を信じるときに罪が贖われて赦され、まっ白(罪なきもの)にされるのです。これが罪の贖いの尊さです。

 

 次に、「いのちの書」とはわたしたちが救われて洗礼を受けたときに、その人の名前が「いのちの書」に記されるのです。イザヤ書4章4節『生命の書に(名が)しるされた者は聖なる者ととなえられる』とあります。つまり贖われた聖徒の名前が記されたところです。神に背き、罪を犯して、この名が消されないようにしなければなりません。

 

 そして、ヨハネ黙示録20章15章には『このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた』とあります。これは平たく言えば地獄で罪びとの滅びです。しかし、21章27節には『(神の国に)はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである』とあります。

 

 まだ洗礼を受けていない人も一日も早く洗礼を受けて、この命の書に名が記されて、死も恐れない平安な日々を送っていただきたいと心からお勧めいたします。

 

               (20141228