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2014年11月30日

「イエスの譬話」シリーズ③

 

 

放蕩息子を迎えた父の愛

 

 

『むすこは父に言った、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」。しかし父は僕たちに言いつけた、「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。それから祝宴がはじまった。

(ルカ福音書1521節)

 

 

 これはイエスがお語りになった有名な放蕩息子の譬話です。そして、この話をとおして「神の愛」が語られているのです。話は大きな農園に二人の息子があり、父を助けてよく働いていましたが、弟の立場は少し複雑で、どんなに一所懸命に働いて農園を大きくしても、兄が後を継ぐことになるので馬鹿らしくなりました。そこである日父に、自分が相続する分の財産を貰って、余所の地で一旗上げようと考えました。

 

 そして余所の地に行きましたが、そこで働くどころか、持ちつけない大金で放蕩することを覚えて身を持ち崩してしまいました。そして無一文になった彼は一緒に遊んだ友人からも見捨てられ、食べることさえ窮するように落ちぶれてしまったのです。そしてどん底に落とされてはじめて本心に返ったのです。こんな所でのたれ死にするよりも、恥を忍んで父の所に帰ろう。そこには大勢の雇い人がいるから、その一人にでも雇ってもらおうと帰ることにしました。

 

 ところが、父の家に近づいたとき、遠くから息子の姿を見た父は走り寄って息子を抱きしめました。息子は「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」と言いましたが、父は僕に「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。

 

 これは放蕩息子を迎えた父の愛です。彼はさんざ放蕩をした人でしたが、、悔い改めて帰ってきたとき、なんの咎めもせず「このむすこが死んでいたのに生き返った」と喜んで迎え入れたのです。そしてこれが神の愛なのです。わたしたちが神に背き、神から離れて放蕩な人生を送っていても、悔い改めて神の前に立ち返るなら、神はすべてを赦して、子として迎えてくださるのです。

 

 このとき父が用意した物、着物は大勢の雇い人の前で恥ずかしくないように、という配慮です。また指輪をはめたのは子供である印です。また履物は、お前は奴隷ではない(奴隷ははだしでした)という印でした。さんざ放蕩をして、父の財産を使い果たしたのに、これは彼が悔い改めて本心に立ち返ったからです。神は今も悔い改めて立ち返る者を喜んで迎えてくださるのです。

 

 イザヤ書4422節に『わたしはあなたのとが(あやまち)を雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなた(の罪)をあがなった(罪ほろぼしをした)から』とあります。神はわれらの立ち返るのを喜んで迎えてくださるだけでなく、わたしたちが犯した罪、咎(とが)を赦して、罪なき者としてくださるのです。このためにイエスが十字架にかかり尊い血潮を流してくださったのです。

 

 三浦綾子さんの小説に「ひつじが丘」という題の作品があります。この小説の主人公は「奈緒美」という娘ですが、彼女は北海道のとある町の牧師館に住んでいましたが、高校時代のクラスメイトのお兄さんと親しくなり、そしてある日、二人で駆け落ちをして彼の勤める町に行ってしまいました。男性は画家を志す新聞記者で、「君がそばにいてくれたら、いまに素晴らしい画が描ける」という言葉を信じて付いてきたのです。

 

 ところが、彼はいっこうに画を描かないばかりか、毎晩のように飲んだくれて荒れ果てた生活をつづけていたのです。一年ほど同棲生活をしていましたが、ある日、彼のズボンのポケットに支局宛の手紙があるのを見つけ、差出人の名前が自分の女学校時代のクラスメイトの名前があったので読んでみると、その女性と親しい関係にあることを知り、信じていただけに裏切られたショックは大きく、カッとなって家を飛び出してしまいました。そして気がついたときは両親の住んでいる町へ向かう汽車の中でした。

 

 両親の家の前まで帰ってきましたが勇気がなく、家の前を行ったり来たりしているうちに真夜中になってしまいました。ようやく、意を決して牧師館のドアのノブを引くと、鍵がかかってなくスーッと開いたのです。「なんと不用心な」と思っていたとき、その音を聞きつけた父が「奈緒美か…」と言って書斎から飛び出してきたのです。そして土間に佇む娘を見て奥の方に「母さん、奈緒美が帰ってきたよ」と叫びました。そしてお母さんも飛び出してきて、玄関の土間で三人が抱き合い、「よう帰ってきた」といって娘の帰還を喜びあったのです。

 

 奈緒美がなにか言おうとしても、両親は「さあ疲れただろう。早くお前の部屋にいって休みなさい」と、それ以上、奈緒美になにも言わせないのです。そして彼女の部屋に三人が抱き合うようにして入ると、そこは彼女が家を出たときのままでした。両親はいつか必ず帰ってくると信じてそのままにしていたのです。

 

 玄関のドアに鍵がかかっていなかったのは、お父さんが「奈緒美は必ず帰ってくる。それも昼間は恥ずかしくてよう帰らないだろうから、帰るのなら夜だ」と彼女が家を出たその晩から、いつでも帰ってこれるように鍵をかけなかった、ということが後にわかりました。これは父の愛でした。わたしたちの神は「愛の神」です。そしてわたしたちが悔い改めて帰ってこれるように、鍵をかけないで待っていてくださるのです。

 

【小説のつづき】

 両親の家に帰った奈緒美が目を覚ましたのは昼近くでした。隣りの教会から讃美歌が聞こえてきましたので、「今日は日曜日だった」と気がつきました。家を出てから一年間も教会に行かなかったので忘れていたのです。ふと気がつくと布団の足元に人の気配がし、それが良一でした。彼は奈緒美が家を飛び出したのを知って後を追いかけてきたのです。

「一緒に帰ろう」「いやです」とやりとりしているとき、突然、良一は奈緒美の布団の上に吐血してしまったのです。この騒ぎを聞きつけた両親は牧師館の二階に寝かせて看病をしました。両親は自分の娘を誘惑した男を赦して迎え入れたのです。そして母親が食事を運んで介抱するのですが、奈緒美は自分を裏切った良一を赦すことができず、両親になんと言われても彼の部屋に足を向けませんでした。

 

 それから数年後、病気は次第に回復し、気分のいい日は部屋で何か画を描いているようでしたが、それを誰にも見せようとしませんでした。ある日、家を出た良一にアクシデントが起こりました。夜雪の上で倒れてそのまま凍死をしてしまったのです。

 

 奈緒美の両親は彼を引き取り、教会で告別式をしましたが、その席で彼が描いた絵を披露しました。それは十字架に掛けられたイエスと、その下に滴り落ちる血潮を両手で受けている男性が描かれていました。それは良一自身の自画像で、彼の信仰告白の画だったのです。彼は奈緒美の両親の温かい介護を受けている間に、神の愛と赦しを知り、悔い改めて神の赦しを求めていたのです。

 

 そしてこの画は展覧会に「十字架のキリストを見上げる自画像」と題して出展し、大変の評価を得たのです。良一は奈緒美の両親の態度をとおして神の愛、赦しの愛を描いたのです。

                      (20141130