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2014年11月23日

「イエスの譬話」シリーズ②

 

 

ぶどう園の労働者の譬え

 

 

『わたしはこの最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ』

(マタイ福音書2014節)

 

 

 

 前回よりイエスがお語りになった譬話をとおして話をしていますが、前回は「岩の上に建てられた家」と「砂の上に建てられた家」について話しました。繰り返すと、岩の上に建てられた家も砂の上に建てられた家も遜色のない家でしたが、洪水がきたときには砂の上の家は流されてしまいましたが、岩の上の家は無事に守られたというのです。それは岩を土台としていたからです。そして聖書は「この土台はイエス・キリストである」とあります。わたしたちの人生もイエス・キリストの信仰を土台としているなら、どんなに災難に遭遇しても恐れることなく磐石としておられるのです。

 

 さて、今日は「ぶどう園の労働者の譬話」をとおして学びたいと導かれていますが、この譬話で「神の公平」と「最後を全うすることが大切だ」ということについて教えられたいと思います。

 

 あるぶどう園が収穫するときになりました。ぶどうは一気に収穫しなければならないので、主人は臨時の日雇い労働者を求めました。早朝6時ごろに1日1デナリの約束で雇いましたが、まだまだ労働者を必要としましたので、9時ごろにまた街に行き雇用しました。また昼の12時にも雇い入れましたが、まだまだ労働者を必要としましたので3時にも雇い入れたのです。

 

 ところが、夕方の5時に街に行ってみると、仕事にありつくことができず、家にも帰ることもできないでいる人を見つけたので、彼も雇い入れました。この人は今日はだめだと思っていたのに声をかけられたので、喜んで一所懸命に働いたことは言うまでもありません。

 

 やがて終業の時間になり、賃金を支払うことになりましたが、主人は最後に雇われた人から支払ったのです。彼に支払われたのは何と1デナリでした。この人は一時間しか働いていないので少ししか貰えないと思っていたのに、一日分の賃金をもらったので喜んだことは言うまでもありません。

 

 それを見て、早朝から働いた人は、あの人が1デナリなら自分はもっとたくさん貰えるだろうと期待しましたが、その人に支払われた賃金も同じ1デナリでした。そこで、その人は「不公平だ」と文句を言いましたら、主人は「わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。…この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ」と言ったというのです。

 

 つまり、この譬話をとおしてイエスは神の前の公平を語っておられるのです。神は愛の人ですから、神の前にたくさん働いた者に対しても、そうでない人に対しても同様に扱ってくださる方です。マタイ福音書5章45節に「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らして下さる」とあります。

 

 ここでわたしたちの人生のことを考えて見ましょう。この早朝に雇われた人は幼いときから信仰に入った人のことです。また9時に雇われた人は青年時代に信仰に入った人のことを表しています。また12時の人は人生の働き盛りにイエス・キリストに出会い救われた人です。午後5時の人は人生の夕暮れどきに救われた人のことです。神はどの時間に救われた人をも同様に扱ってくださるのです。大切なのは人生の最後を全うすることです。ある先生が、ご自分の説教のなかで、こんなことを語っておられます。「良く生きることは長く生きることよりも大切です。そして、その終わりが特に大切です。なぜなら、そこから天国に連なっているからです」と。

 

 今日は長寿社会となり、百歳以上の方が数万人おられると報告がありましたが、わたしが若いときには百歳のお年寄りなんて考えられませんでした。素晴らしい時代になりました。これは医療が進歩し健康が祝され、そのうえ年金時代であまり困らないようになったからではないでしょうか。確かにありがたい時代です。

 

 あるときボストン女子マラソンのテレビ中継を見ました。途中からですが、アナウンサーが声をからして「これはえらいことになりました。新記録が生まれます」と絶叫していましたので見ていると、一人のランナーがものすごいスピードで走っていました。そして2番目のランナーはと見るとその姿が見えないほどです。

 

 ところが、40キロ地点に差しかかったところで、突然そのランナーは走るのを止めて、お腹を押さえて路上にうずくまってしまいました。腹痛のようで、やがてコースから離れてしまいました。落伍をしたのです。あんなにすごいスピードで走っていたのに、見ていても残念でした。わたしたちはそんな無理をしなくても最後まで走り抜けばいいのです。その後に走ってきたランナーは自分が1位になっていることも知らず、スタジオに入ってきたらスタンドの観衆が万雷の拍手をして迎えてくれたのにその意味が分からず怪訝な表情で走りつづけていましたが、ゴールに入ってはじめて自分が1位であったことを知り怪訝な顔をしていました。

 

 天国競争はそんなに猛烈に走らなくても、とにかく最後にゴールをすればいいのです。途中で休憩してもまた走ればいいのです。とにかく最後を全うすることが大切なのです。わたしたちの天国のゴールも見えています。最後まで走り抜きましょう。

 

 旧約聖書に、人生の最後を取り乱して失敗した王のことが書いてあります。その人は南ユダ王国の10代目のウジヤ王です。彼は若干16歳のときに王位に就いて52年間イエスラエルを治めました。そのために国は栄えて「彼の名声は遠くまで広まった。彼が驚くほど神の助けを得て強くなった」とあります。

 

 どうして、このように国が栄えたのでしょうか。それは彼を幼いときから育てた守役ゼカリヤがいて、皇太子であるウジヤに対して帝王学を教えたばかりでなく、彼は祭司ですから神を畏れることを指導しましたので、「神を求めることに務めた」のです。

 

 16節には『ところが彼が強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った』とあります。つまり全く変心してしまったのです。いったいウジヤに何が起こったのでしょうか。それは守役ゼカリヤが死んだため、自分に注意をするものがいなくなったためだと言われています。つまり自分の目の上のたんこぶがなくなり、彼を諌める者がなくなったからです。

 

 そこで王の宮に入って祭壇で香をたこうとしました。それを見た祭司アザリヤが「主に香をたくことはあなたのなすべきことではありません。すぐに聖所から出なさい。あなたは罪を犯しました」と注意したのです。何故なら、祭壇に香をたくことができるのは神に仕える祭司だけで、どんなに立派な王でも許されないことでした。

 

 しかし高慢になっていた王にはそんなことも忘れて、自分に忠告した祭司を睨み付けていたときに、王の額に重い皮膚病が現れたので、急いで神殿から追い出されて、死ぬまで離れ殿に隔離されました。

 

 ウジヤ王は52年間、国を治めて強固な国を築き上げた人でしたが、その最後に高ぶって失敗したのです。わたしたちも大切なことは、その最後を全うしたいものです。そして彼は最後に王家の墓に葬られませんでした。最後に失敗したためです。

                        (20141123