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2014年11月2日

「御霊の実」シリーズ⑤

 

柔和な人たちは国を継ぐ

 

『御霊の実は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない』。ガラテヤ書522

 

 

 「御霊の実」シリーズとしてお話ししていますが、本日は「柔和」について話します。この柔和とは「心の優しい」「おとなしい」ことで、これもキリスト教の徳目です。そして、この言葉は聖書のなかによくでてきます。マタイ福音書55節には『柔和な人は人たちはさいわいである。彼らは地を受け継ぐであろう』とイエスはお語りになっておられます。これはリビングバイブルでは『柔和で高ぶらない人は幸福です。全世界はそういう人のものになるからです』とあります。また詩篇3711節には『柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄を楽しむことができる』とあり、またコロサイ書312節には『あなたがたは神に選ばれた者、聖なる愛されている者だから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい』とあります。このようにしてみても、柔和はクリスチャンにとって大切な徳目なのです。

 

 そして、イエスも柔和な人として聖書に登場しています。マタイ福音書1129節『わたしは柔和で、心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい』。イエスがエルサレムに入場されるとき、背の低いろばの子の背に乗って入場されました。これは人類の救いのために来られた救い主の象徴でした。つまり人々と同じ目線に立たれたのです。

 

 それに対して、当時の占領軍であるローマ兵は高い軍馬の背に乗って、ユダヤ人たちを見下げるようにし入場したのでユダヤ人の反感をかいました。しかしイエスは柔和な人ですから謙遜になってユダヤ人と同じ目線に立たれたのです。それは身分の低い民を救うためだったのです。

 

 わたしたちも御霊の力に満たされて柔和な人になるなら「彼らは地を受け継ぐ」ことができるのです。

 

 士師記8章にギデオンの柔和について記されています。『エフライムの人々がギデオンに向かい「あなたが、ミデアンびとと戦うために行かれたとき、われわれを呼ばなかったが、どうして、そういうことをされたのですか』と言って激しくギデオンを責めました。そのときギデオンは『今わたしのした事は、あなたがたのした事(手柄)と比べるものになりましょうか』と答えたときに、『彼らの憤りは解けた』のです。つまりギデオンの柔和な態度が相手の憤りを溶かしたのです。

 この話をもう少し遡って話ますと、ギデオンがミデヤンと戦うとき、ギデオンの軍勢は三万二千人でした。ところが神は「それでは多すぎる」と言われたのです。そして神が言われるがままに「戦いたくない者はこの場から去れ」と言うと、エフライム人をはじめ二万二千人が戦場から離脱をしていき、残った者は一万人となりました。ところが神は「それでも多すぎる」と言われたのです。それで再び選別したところが、神のみ心に適って選ばれたのが三百人でした。神はこの三百人でミデアンの軍勢を戦えといわれたのです。これが「ギデオンの三百」です。

 

 そこでギデオンはある晩、三百の精兵に壺と松明を持たせてミデアン軍の野営地を取り囲み、真夜中に松明に火をつけて、一斉に壺を割ったら、その音が静寂な夜に割れんばかりに響きわたりましたので、驚いてテントから首を出して外を見ると、松明が野営地を取り囲んでいたので彼らは慌てました。恐怖になった者には三百本の松明が何倍にも見えたのです。

そこで真っ暗がりの中で同士討ちをはじめました。山の上でギデオン軍の優勢を見たエフライムの人たちに勇気が与えられて、彼らも山を下って戦いに加わりました。

 

 そして戦いはエフライムの人たちの加勢により完全に勝利をすることができたのです。ところが、その後で彼らはギデオンに対して「何故、戦うときにわれわれに声をかけてくれなかったのか」と文句を言ってきたのです。彼らは戦うのが嫌で最初から戦列を離れていた人たちでした。でもギデオンは「あなたがたの手柄はわたしたちの手柄とは比べものにならない」と言ったところ、彼らの憤りが溶けたのです。つまりギデオンの柔和な態度が問題を解決したのです。ですから、わたしたちも自分に利があっても大きな心をもって柔和な態度で相手に接するなら平和に問題は解決するのです。箴言151節に『柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす』とあります。ですからわれわれも、どんなに無理無体を言われても柔和な心、優しい言葉で接するなら、人々と仲良く平和に過ごすことができるのです。

 

 次にモーセの柔和について話します。民数記123節に『モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた』とあります。聖書の中に大勢の人物が登場しますが、こんなに褒められた人は彼だけです。モーセはエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を脱出させてカナンに導いた偉大なる指導者でした。

 

 しかもイスラエルの民は素直ではなく、ことあるごとに不平不満を言ってモーセを困らせました。でも彼は忍耐をして民を赦して導きました。また姉のミリアムから「あなたは王のように振る舞っている」と言って非難されたこともありましたが、それを赦すことができたのは、彼が柔和だったからです。

 

 ところが、その柔和なはずのモーセが決定的な失敗をしたのです。民数記20章で、チンの荒野で民が「水がない」と言って騒ぎだしました。そこでモーセは神に水を与えるように祈りましたら神は「あなたは杖をとり、岩に命じて水をださせなさい」ということでした。

そこでモーセはイスラエルの民を集めました。

そして、「モーセは手をあげ、杖で岩を二度打つと水が出て会衆とその家畜はともに飲んだ」とあり、渇きから救われました。ところがその後、神はモーセに対して、『あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前でわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができない』と言われたのです。癇癪を起こして民を審いたからです。

 

 モーセはエジプトを出てから40年かけてイスラエルの民を導いてきた功労者であるのに、最終目的であるカナンに入ることがゆるされなかったのは彼がイスラエルの指導者だったからです。しかも『わたしの聖なることを現さなかった』とは、神は聖なる神で、イスラエルの民が幾度不平を言い、文句を言ってもそのたびに赦してこられたのにお前はイスラエルの民を審いたからです。つまり民の幾度の不平不満に疲れ果て柔和さを失ったのです。わたしたちも、いつもよく祈って御霊の力に満たされていればいいのですが、祈りを怠ると御霊の力を失い、冷静さを失って失敗してしまいます。

 

 最後にエペソ書42節『できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊の一致を守り続けるように務めなさい』われわれクリスチャンにとって大切なのは、謙虚(謙遜)、柔和、寛容、忍耐、平和、御霊の一致です。これらはみな御霊によって神から与えられるものです。祈り求めましょう。 201411.02