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2014年10月12日

「御霊の実」シリーズ②

御霊の実は愛…

 

『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、 自制であって、これらを否定する律法はない』。    ガラテヤ書522

 

 前回から「御霊の実」シリーズとしてお話していますが、本日は「喜び」について話します。誰でもいいことや、嬉しいことがあれば喜びますが、その喜びはいつまでもつづくものではなく、聖書に「喜びの果てには憂いがある」(箴言1413)とあるように、何かあるとすぐに消えてしまうようなものです。

 

 しかし、御霊の実、つまり聖霊によって神から与えられる喜びは、サタンから少々水を掛けられても消えるようなものではありません。心の中からこんこんと湧き溢れる喜びです。

 

 

 ジョン・バイアンの書いた「天国の歴程」という書物がありますが、これは一人の求道者が天国を目指して旅をする、その道中で出会う出来事を記した道中記で、非常に興味深いものです。その中にこんな話があります。道端にパピリオンがあり何か展示をしていましたので、その中を覗いてみると奇妙な光景が目に入りました。暗室の室内の一ヶ所にチョロチョロと火が燃えているのです。ところが黒装束をした人がバケツの水を掛けると、火は消えそうになりましたが、またしばらくすると燃えはじめました。何故消えないのか不思議に思って見ていると、コンパニオンが「この火が消えない秘密を教えましょうか」と言って隣りの部屋に導きました。

 

 その部屋は明るく、一人の白装束をした人が、隣の部屋の火の燃えているあたりの壁に漏斗(じょうご)を差し込んで、油をトクトクと入れていたのです。そしてコンパニオンは「これが火が消えない秘密です」と説明をしました。黒装束を着た人はサタンで、わたしたちの信仰の火を消そうと水を掛けますが、白装束の人が裏から聖霊の油を注いでいるかぎり火は消えない、ということを教えたものです。つまり、わたしたちの喜びも聖霊の油を絶やさないかぎり、決して消えないのです。それどころか、いつも湧き溢れる喜びに満たされるのです。

 

 

 山陰のある教会の庭に、長いこと使われていない古い井戸がありました。牧師は何とか使いたいと蓋をとってみますと、腐ったような水が溜まっていましたので、バケツにロープを結んで水を汲み上げていきました。だいぶ水も少なくなり底が見えてきましたので、蠟燭に火を灯して針金に結んで井戸の中に下ろしてみましたら、火はふと消えてしまいました。井戸の中は酸欠状態で危険な状態だったのです。そこでまた水を汲み上げていき、ようやく底が見えてきましたので、ふたたび蠟燭に火を灯して下ろしてみましたら、こんどは火は消えませんでした。

 

 そこで梯子を降ろして井戸の底に下りてみましたら、一面ヘドロに覆われていました。そこでヘドロをかき集めて外に出しましたら、そこから白い真砂の層が見えてきました。そしてその底からコンコンと綺麗な水が湧き出ていたのです。数日経つと井戸の水は口まで一杯になりましたので、その水を汲み上げて庭の植木にやりました。(すぐに飲み水とするには抵抗があったからです)また数日後に、もう大丈夫だろうと飲んでみると、とても冷たくおいしい水だったそうです。この井戸は本当はいい井戸だったのですが、長い間使われないうちに底にヘドロが溜まって腐ったような水になっていたのです。でもヘドロ(罪や汚れ)を取り除いたときに神は聖霊の油を注いで、よい水が湧き溢れるように変えてくださったのです。これも御霊の実です。

 

 

 1915(大正4)1010日は柘植不知人先生が聖霊のバプテスマを経験された記念すべき日です。先生が初めてキリスト教に出会われたのはそれより2年前の1913(大正2)921日です。行方不明になった妹さんを捜して神戸に来られ、湊川新開地にある日本伝道隊の「湊川伝道館」で開かれていた天幕伝道会でした。その晩先生は放蕩の生涯を悔い改めて劇的回心をされたのです。

 

 生まれ変わった先生は、早速、献身して神学校で学ぶかたわら、各地の伝道に遣わされて尊い御用をしておられました。そしてこの日、「警官ミッション堺支部に出張して組合教会で集会をもたれたところが、聖霊の働きが著しく臨在が輝き、説教が終わらないうちに全会衆に罪の意識が起こり、泣き叫び、戦慄し、椅子から転び落ちる者まであり、最後には全会衆が悔い改め、救いを求める光景は物凄いものだった」と「ペンテコステの前後」に記されています。

 

 その集会の後、大阪駅の裏町に出て、神を崇めて祈りながら、また讃美をしながら歩いていたとき、にわかに大きな力が先生を覆いました。「それはバケツの水を頭の上からぶっ掛けられたような感じだった」と先生は述べておられます。

 

 すると喜びが心の底から湧き溢れて、抑えてもおさえきれず、ゲラゲラと笑いが溢れて抑えることのできないような不思議な経験をされたのです。列車に乗るときもハンカチで口を覆い、群衆に顔をみせられないような状態で、列車のいちばん後ろの座席で壁に向かって座り、やっとの思いで神戸の自宅に帰られたのです。これが柘植不知人先生の聖霊体験だったのです。わたしたちも聖霊に満たされるときにこのような喜びに満たされるのです。           (201410.12)