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2014年9月21日

わたしが出会った人物シリーズ⑧

  あるホテルマンの話

 

『死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう』

            (ヨハネ黙示録210節)

 

 神がいちばん喜ばれることは「忠実」であることであります。そしてここに「死に至るまで」とありますが、これは「人生の最後まで」という意味です。なぜなら「そこから天国に連なっているから」です。若いときにどんなに熱心に信仰に励んでいても、その生涯の最後を全うできなければ悲しい結果に終わってしまいます。イエスが語られた「ぶどう園の譬え話」のなかに、午後5時に雇われて働いた人にも、皆と同じ報酬を支払ったという話がありますが、それは最後を全うしたからです。わたしたちもその人生の最後まで忠実にありたいものです。

 

 今日は、あるホテルマンの話をします。この人は神戸のオリエンタルホテルの総支配人をしていた人で、関西のホテル業界では有名な人でした。その人に出会ったのは43年前の38歳のときでした。ある日、教会員の女性が尋ねてきて、友人の奥様が癌で余命いくばくもない状態で、ご主人から「家内の葬儀をあなたの行っている教会でしてもらえないか」と打診されたというのです。

 

 いきなり見も知らない人の葬儀をしてくれといわれて、わたしは途方にくれてしばらく返事ができませんでした。どう返事をしたらいいか、胸のなかでお祈りをしていたときに示されました。「その奥様は亡くなったわけではないですね。それなら、その奥様が救われて天国に行けるように祈るべきではないでしょうか」と答えました。すると、その方はその旨をご主人に伝えましたら、ご主人は、「わたしは家内の葬儀のことばかり考えていた。その先生に来てもらって、家内が救われて天国に行けるように祈ってもらってください」と言われました。

 

 そこで、翌日から灘の海星病院に行きお祈りを始めましたら、病人はいきなり若い牧師が来てお祈りをはじめたので、当惑をしている様子でした。数日間、病院に通いましたが、ある日「洗礼を受けて天国に行きませんか」と言いますと、奥様は顔を横に振るのです。そこでご主人のところに行き、その旨を話ますと、主人は「ではわたしに洗礼を授けてください」と言われましたので、翌日に洗礼式をすることになりました。

 

 その日、そのお宅を尋ねると、家族の皆さんが招集されており、ご主人が「今日わたしはこの先生から洗礼を受けるから、あなたがたは立ち会ってください」と言い、家族が見守るなかで、応接間で洗礼式をしました。終わるやいなや、主人は「先生、これから病院に行きましょう」と言われたので、一緒に駆けつけました。そしてご主人は「わたしは今日、洗礼を受けました。あなたも洗礼を受けて同じところ(天国)に行きませんか」と言いますと、奥様は首を縦に振りました。このご夫婦はとても仲がよく、奥様は夫婦が別々になるのが寂しかったのです。そこで早速病床洗礼を授けました。

 

 病院を出て教会に帰り車を車庫に入れようとしていたとき、電話があり、奥様が亡くなったことを知らされましたので、再び病院に駆けつけました。そして奥様のお顔を見たときに、平安な天国行きの顔をしておられましたので安心しました。そしてぎりぎりでしたが間に合ってよかったと、神に感謝しました。そして告別式はいうまでもなく山手教会で営まれましたが、ホテル業界の人たちが大勢参列され盛大な告別式となりました。

 

 告別式後からその方は聖日礼拝に出席されるようになりました。病気で教会に出られなくなるまで20年間、皆勤ペースで出席されましたが、その礼拝に対する姿勢はわれわれの模範となるものでした。

 

オリエンタルホテルを退職後は、大阪のプラザホテルの支配人となられ、その後は岡山で新しくホテルを創建するために岡山に赴かれることが多くなりましたが、土曜日には帰って来て自分の教会で聖日礼拝をまもり、また月曜日に岡山に行かれるのが日常でしたが、それほどまでして自分の教会での礼拝を大切にしておられたのです。そして、いつも「きび団子」をお土産にくださるので、子供たちは「きび団子の人」と呼んでいました。

 

 また、教会に来られるときはいつもきちっとした服装で出席され、さすがホテルマンと思わされるものでした。そして真夏でもスーツをもって来られ、礼拝がはじまるとそれを着て礼拝されていました。その当時はクーラーもなく、礼拝堂の窓をみんな開け放ち、数台の扇風機をブンブン回している状態でしたが、彼はスーツを着て平然としておられるのです。わたしが「暑いでしょう」と言うと「牧師がスーツを着て、汗を流して説教をしておられるのに…」と言われたのはとても印象的でした。

 

 よく「服装の乱れは心の乱れ」といいますが、わたしたちは神の前に出るのですから、第一礼装(儀式のときの正装)とまではいかなくても、洗濯された小奇麗な装いで神様を礼拝したいものです。

それが神を畏れる敬虔な心の表われではないでしょうか。

                    (2014921