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2014年8月31日

わたしが出会った人物シリーズ⑤

謙遜、へりくだった人

 

『こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである』(マタイ福音書53)

 

 ここに「こころの貧しい人」とありますが、「貧しい人」だけなら貧乏な人ですが、「こころの貧しい人」は謙遜な人、へりくだった人のことです。そして謙遜な人が天国に入ることができるのです。何故なら、天国は狭き門ですから、高ぶった人、高慢な人は入ることが出来ないからです。

 

 アウグスチヌスは「人間にとっていちばんの美徳は謙遜です。第二も謙遜です」と言っていますが、聖書の中にも「謙遜」「へりくだり」と言った言葉がたくさん出てきます。たとえばコロサイ書312節に『あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい』とあります。

 

 つまり、神は謙遜な者、へりくだった者を愛してくださるのです。ところが人間はやたらと高ぶり、高慢になります。それは罪人で、神を畏れ敬う心がないからです。

 

 

柘植不知人先生が救われて間もなく警察官伝道をはじめました。それは自分の妹が行方不明になったときに警察に捜索願いを出しに行ったときに、警察官の態度があまりにも冷淡だったので、これではいけない、先ず警察官が救われなければならないと感じたからです。そこである警察に行ったとき出てきた警察官が、少し宗教のことを研究しているとみえて、「この宗教の教えはこれこれ、あの宗教はこうこう」と、次からつぎと得意になって語りだして、柘植先生の口を挟む余地もないほどでした。そこで柘植先生は聖書の言葉を書いて、「これをご覧ください」と言って警察署を辞しました。

 

 その聖書の言葉はコリント前書82節の『もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない』という、その人に対する痛烈な皮肉ともととられるような言葉だったのです。

 

 それから暫くして柘植先生は、またその警察署を尋ねたら、同じ警察官が出てきて、今度は丁寧に先生を迎え、「先日は、知ったかぶりをして失礼しました。先生が書いてくださった言葉を読んで恥ずかしくなりました。今日は先生のお話を聞かせてください」と謙遜になって柘植先生の話を聞き、救われて恵まれたクリスチャンになったと柘植先生は話しておられます。

 

 最近は「わたしのであった人物シリーズ」として、いろいろな聖徒の恵まれた姿を話してきましたが、今日お話しする方も恵まれたクリスチャンで、その姿勢から多く教えられました。

 

 わたしが信州の教会に遣わされたのは若干26歳でした。その就任式のとき市内の教会から大勢の牧師や信徒の方が参列して祝福してくださいました。そのとき祝電の披露があり、最初に教団総会議長の祝電が披露され、続いて長野市長の祝電が読み上げられました。「ボウムカイテルクニシノゴシュウニンンオメデトウゴザイマス、ナガノシチョウクラシマイタル」と読まれたとき、会場が一瞬どよめきました。牧師たちは自分たちの就任式に市長から祝電をもらったことがないのに、どうしてこの教会に祝電が届いたのかわからなかったからです。実は、この教会の役員が長野市の助役(収入役)だったので、市長がその助役に対して敬意を表したことを後に知りました。この人は地方銀行の本店の店長をしておられた方でしたが、市長から格別に乞われて収入役を受けた方でした。

 

 そんなことで、数日後に市長舎を訪問しました。受付で話すと、収入役と表札のある部屋に案内されましたが、その人は広い部屋の真ん中で、大きな机の前で忙しく仕事をしていました。「先生、少しお待ちください、すぐ片付きますから」と言われ、その仕事ぶりを見ていました。その姿は教会でみる柔和な、そして謙遜な態度ではなく、威厳をもって職員が持って来る書類に目を通して印鑑を押したり、いろいろと指導しているのを見て、教会で接するその人との違いを見ていました。

 

 仕事が一段落したようで、「先生、お待たせしました。どうぞこちらにお出でくださいと廊下の奥のほうに案内されました。そこは「市長室」と表札がありました。その部屋に招き入れられ、市長さんに紹介されました。「この御方が、このたびわたしの教会に来られた牧師先生です」と丁寧に紹介をしてくださいました。市長は握手をしてくださり、「長野市民のためによろしく」と挨拶をしてくださいました。それから暫くいろいろなことを話して市長室を辞しましたが、市長舎の玄関まで出ると黒塗りのセダンがありましたので、それをよけて出ようとすると、白い手袋をした運転手が車のドアーを開けて「どうぞ」と声をかけてくれました。まさかわたしのために用意した車とは思いませんでしたが、助役さんのほうを見ると目で乗るように合図をしてくださいましたので乗車しました。

 

 車の中で運転手に「これはどなたの公用車ですか」と聞くと「市長のです」と答えられびっくりしました。そして教会の前で車がとまり、白い手袋をした運転手がドアーをあけるのを見て、近所の人たちは、どんな人が降りてくるのか見ていると、最近来た若い牧師が降りてきたので驚いていました。

 

 しかし、このときにわたしが感動を受けたのは、助役さんが市長に紹介するときの言葉使いでした。助役さんからすれば自分の息子と同じくらいの年頃の牧師を「この御方は…」と紹介された丁寧な言葉使いに、この人は謙遜な人だなぁと感動しました。謙遜は人間の最大の美徳です。

 

 これと真逆の話をします。神学校を出た若い牧師が地方の教会に赴任しました。ところが就任当初から戦いを覚えるようになりました。その教会には最高学府を出た人が役員をしており、その若い牧師は義務教育しか学歴がない人で、神学校に入るときにも学歴が不足していると、どこも入れてくれませんでした。でも一つの学校が仮入学で受け入れてくれるような状態でした。

 

 ですから、その役員は牧師を見下げ、先生と呼ばず「○○君」と呼ぶような次第です。ある日、その人から教会に電話があり、「○○君、こんど聖餐式をするから用意をしてくれたまえ」と言って電話を切ったのです。聖餐式を決めるのは牧師のすることで、役員が指示をすることではありません。それは同じ職場の人たちに「自分は教会で牧師を左右できるのだ」、という自分の偉さを知らせたかったのです。これはその人の高ぶりでした。

 

 そこである日、その人に「もう少し謙遜になりなさい」と注意をしましたら、その人は黙って聞いていましたが、何も言わないで教会を出ていきました。そして翌朝、教会の玄関に手紙を投げ込まれており、「折角のご意見だが従いがたし」とだけ書いてありました。そしてその人はそれきり教会に来なくなりました。

 

 数年後、牧師が新聞を見て驚きました。一面トップに海軍工廠の疑獄事件(増収賄事件)のニュースが報道され、その首謀者にその人の名前が載っていたのです。それをみたとき牧師は、あのとき悔い改めて謙遜になっていたら、こんなことにならなかったのにと残念に思いました。                     (2014.08.31