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2014年8月24日

わたしが出会った人物シリーズ④


死の恐怖から解放


 

『それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の(十字架の)死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである』(ヘブル書215)

 

 だれしもが死の恐れをもっています。それは罪があるからです。しかし、イエス・キリストはわたしたちの罪の贖いを成就するために十字架にかかって死んでくださったのです。ですから、イエス・キリストをわたしたちの救い主として信ずる者を、罪から救って死を恐れない平安な者としてくださるのです。今日は平安に天国に召された老聖徒のことを話ます。

 

 わたしが長野の教会に遣わされたのは26歳のときでした。神学校を卒業して東京都内の教会で伝道師をしていましたが、活水の群から「長野の教会の牧師が病気で召されたので、あなたに行ってほしい」と言われました。そこで41日に上野から出発しました。今まで長野県に足を踏み入れたことはなく、アブラハムのように、『その行く先を知らないで出ていった』(ヘブル書118)といった心境でしたが、それがよかったのかもしれません。

 

 教会員が40名ほどの教会でしたが、礼拝後にお互いに「先生、先生」と呼び合っているのを見て驚きました。後で分かったことですが、その教会には教員が多く、校長が3名、教頭が3名ほど、そして教員が数名いるような状態と、その家族という構成でした。はじめて教会に来た人がどれが牧師かわからず、その中でもいちばん年長者の貫録のある人が牧師だと思っていたが、いちばん若い人が牧師だった、と言って笑われました。初めからこんな教会だと分かっていたら、恐れをなして辞退をしていたかもしれません。何も知らなかったのでよかったのだと思います。

 

 この教会の興りは、長野師範学校(現信州大学教育学部)の心理学の教授で、クリスチャンの杉崎先生のお宅で、お弟子さんたちが集まって家庭集会が開かれ、これが教会に発展したのです。その学生たちが集まって出来た教会だったので、教会員のほとんどがわたしよりも年長者でした。ですから、わたしはその人たちによって育てられたと思っています。

 

 こんなことがありました。わたしの説教がよくわからなくていたところ、「そのいちばん年長者の校長さんが、説教の後で祈られたいのりを聞いて、今日の説教がよくわかった」と言われたこともありました。そのようにしてわたしは、その教会で育てられたのです。ですから8年後に辞任するときの送別会のとき、わたしは「この教会はわたしにとって第二の神学校だったと思っています」と挨拶をしました

 

 いまから四十数年ほど前、長野市の郊外の松代町を震源地とした「群発地震」が起こりました。朝から晩まで絶え間なく「グラグラ、ドカン」と発生するのです。しかも、それが一年間ほど続くもので家族を疎開させようかと考えましたが、牧師が家族を帰したとなると、心理的に動揺を与えないかと配慮して止め、信者のみなさんと運命共同体になることを決心しました。

 

 そんな群発地震の最中にその年長者の先生が病気になられました。おそらく地震が影響したものと考えられます。そこで現地では落ちつかないので少し離れた佐久市の総合病院に入院して手術を受けることになりましたので、手術前に祈りに行きました。その方はとても平安で「神様、このままお召してくださっても結構です。しかし、わたしに、もし少しでも使命がありましたら御心のままにしてください」と、静かに祈られた姿はとても印象的でした。そして神を信頼する者の魂の平安と力強さを感じました。

 

 手術の後は順調に回復しておられましたが、ある日、痰が喉に詰まって亡くなりました。そこで早速その家に駆けつけましたら、枕辺におられた家族の方が、「父がこんなものを残していました」と、一冊の大学ノートを渡してくれました。そこでわたしは病床日記かなとページを操ってみましたら、まず最初のページに「わたしが召されたらこの人たちに知らせてほしい」と、たくさんの人たちの名前が書かれていました。しかも、「友人関係」「教員関係」「親戚関係」と分類がしてあり、その用意周到さに驚かされました。

 

 次のページを開いてみると、そこには死亡通知の挨拶状の文面が書いてあり、「故○○○○は○月○日に召天いたしましたのでご通知いたします。告別式は○月○日に長野七瀬教会で行います。尚、本人の意思によりお花料は固くお断りいたします」といったことが書いてあり、○のところには日付などを書き込めばいいだけになっていたのです。

 

 三ページ目には、告別式のプログラムの原稿が書いてあり、讃美歌の番号や読んでほしい聖書の箇所まで、必要なことがすべて書き込まれていました。四ページには、ノート一面に大きな四角の線が引かれ、その中に丸や四角が幾つも書いてありました。これは葬式の後の料理(おとぎ)の献立だったのです。丸い絵の中にはお吸い物、四角の絵には煮物といった料理の名前が書いてありました。このノートを読み、その方の用意周到さに驚くばかりか、ちゃんと準備をされたその方の平安な姿に感服しました。

 

 皆さんの中には死の恐怖の奴隷になっておられる方はありませんか。もしそのような方がおられるなら、この方のようにイエス・キリストを救い主として信じて受け入れてください。神はあなたがたに復活の信仰と力を与えて、死の恐怖に打ち勝つことのできる人としてくださいます。子なるイエス・キリストはそのために十字架にかかって死に、わたしたちの罪の贖いを完成してくださったのです。そして、この方(救い主)を信ずる者は、罪が赦されるばかりか、永遠の命が与えられ、復活の信仰に生きるものとしてくださるのです。

 

 ヘブル書214節『それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自身の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである』。

 

 つまり、イエス・キリストの十字架の贖いは、わたしたちを死の恐怖から解放してくださったのです。人間にとっていちばんの恐怖は死です。それは死の次に神の審きがあるからです。しかし、罪が贖われた者(罪が赦された者)は、報いを受けることはあっても、審きをうけることはありません。ですから、地上の生涯を平安に過ごすことができるのです。

 

 あなたも平安な生涯を歩いてみませんか。何がいちばん幸せかと言っても、いつも心に平安が与えられていることです。どんなにたくさんの財産をもっていても、どんなに立派な家屋敷に住んでいても彼らは満足していません。ヨブ記2221節に『あなたは神と和らいで(和解して)平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう』とあります。      (2014.08.24)