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2014年8月17日

わたしが出会った人物シリーズ③

是空園から賛美園へ

 

『あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。(だから)まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』。(マタイ福音書633)

 

 戦後、外地から引き揚げてきた人が、郷里の小高い山林を開拓して果樹園を造ろうとしていました。土地を掘り起こし、岩を掘り出して砕き、経理畑出身であまり肉体労働の経験のない人にとってはかなり厳しい労働でした。そのために身体をこわして床に就くようになってしまいました。すると、これからの四人の家族のことが心配で悶々としていました。

 

 そんなときに小学校時代の先生を思い出して手紙を書き、自分の苦しい窮状をめんめんと訴えました。手紙を受けとった先生は早速尋ねて来てくれましたので、自分の苦しい胸のなかを話しました。するとその先生は(クリスチャンでしたので)聖書のみ言葉を書いて渡してくれました。そこには前掲の『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう』と書いてありました。そして帰り際に「教会の牧師を呼んであげようか」と言いましたのでお願いしたところ、牧師はその翌日に山をのぼって訪問してくれました。

 

 牧師はその人のために祈ってくれ、また信仰のお導きをしてくれました。そして少し元気になったその人は、それから教会に行き信仰をもつようになり救われました。そしてまた開拓に勤しみました。

 

 彼は自分の果樹園を「是空園」と言っていましたが、これは仏教の般若心教の「色即是空、空即是色」からとったもので、この「色」とは現実界のあらゆる物質的存在は、固定的実体はなくみな空である。といった刹那的な意味で仏教哲学の分野の言葉です。世間では「色事は虚しい」と呼んでいる人がいますが、これは間違いです。

 

 そしてこの人は、クリスチャンになってからは考えが変えられ、実を結んだリンゴは神の栄光を現していると「讃美園」と名前を変えるほど恵まれたクリスチャンになったのです。

 

 クリスチャンになったからと言っても生活は楽になったわけではなく、木の苗を植えても成木になって実が成るまでには何年もかかります。その間は、リンゴの収入はまったくゼロです。そこでその間は、木の間を耕して野菜を作り、朝採れた野菜を善光寺の町に行商して歩かなければならない毎日でした。ところがその人の野菜は新鮮で、みんなが待っているようにして買ってくれました。

 

ところが、ある日のこと、行商をして歩いていると、どこからともなく讃美歌が聞こえてきました。しかも大勢の人が歌っているようです。彼は立ち止って歌のする方を見たら、そこに教会があったのです。いつも通っていたのに、小さな民家に看板を上げただけの教会だったので気がつきませんでした。そのときに彼は思いました、彼らは日曜日に礼拝をして恵まれているのに、同じクリスチャンである自分が、わずかばかりの野菜を売り歩いているのがとても惨めに思えたのです。

 

 そこで彼は思いました。これから自分も日曜日には行商をやめて教会に行こう。それでもし食っていけないようであれば信仰はやめようと決心をしました。そして、そのようにしたところが、神は不思議なことをなさったのです。一週間七日のうち一日休むのですから、収入は七分の一の減収になるはずですが、なんと、一週間七日働いていたときと一年間の収入は全く同じだったのです。これは神の不思議な算術だったのです。これは彼が「神の国と神の義」を求めたからです。「神の義」とは、神と正しい関係にあることです。

 

 こんなこともありました。まっ赤なリンゴが実を結び、あと一週間したら収穫をして農協に出荷しようとしていた矢先に、珍しくその地方に台風が来襲したのです。そして一晩中吹き荒れ、リンゴが木から落ちる音は過酷なものでした、そして台風一過、朝外へ出て見ると、木の下には落ちたリンゴでまっ赤な絨毯のようになっていました。失望した彼は、税務署に電話をして「被害の実態を見てほしい」と訴えましたら、税務署の人は早速きてくれました。「こんなにたくさん落ちたので、来年は税金は払えないから」と言いましたら、税務署の人は手帳をだして木の上のリンゴの数を数えだしたのです。そこで「見てほしいのは落ちたリンゴだ」と言いましたが、木の上のリンゴばかり数えていたのです。さすがに彼もクリスチャンです。その税務署の人の行動を見て気がついたのです。悲観をして落ちたリンゴばかり見ていたが、神はまだこんなに残していてくださったと。彼は「わたしは税務署の人に教えられました」と言っていました。

 

 そして、一年間の収入を計算したところが、豊作だった前年と全く同じだったのです。それは台風で被害を受けたのはその家だけでなく、その地域一円が被害を受けたのでリンゴの値が上がったからです。これも神の不思議な算術でした。ですから、わたしたちも、「神の国と神の義」を求めていけば神は不思議をもってわたしたちを養ってくださいます。

 

 これから少しわたしのことをお話しします。わたしは若いときから(結婚した当初から)什一献金を守ってきました。「什一献金」とは収入の十分の一を神様に献げることです。これは旧約聖書のマラキ書に教えられているからです。「什一献金」の箱をつくり、収入があったときにその中に入れ、教会に行くときにその中から献金をもっていくので、月末になっても献金がないということはありません。そして神はわたしたちの生活を豊かに祝福してくださいました。

 

あるとき教会の中で、「坊向先生の生活をみていると、とても裕福な生活をしておられる。きっと神戸のお父さんから援助があるに違いない」と噂をしているのを知りました。そこで、次の日曜日の礼拝のときに講壇から「そんな噂をしているようですが、わたしは父から援助は受けていません。もし裕福そうに見えるのなら、それはわたしたちが什一献金をしているからでしょう」と話ました。

 

二十年ほど前から導かれて、礼拝毎に献金を一万円ずつ献げることを決心しました。それはわたしにたくさんお金があったわけではなく、阪神大震災の影響で教会の献金が減少したからです。そして今日まで二十年間それを続けていますが、什一献金の箱の中が月の半ばで底が見えるといったことはありませんでした。むしろ不思議なように満たされて献金が出来なかったことは一度もありませんでした。神は不思議なようにしていつも満たしてくださいました。

 

『かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった』というみ言葉のとおりでした。(列王記上1716)

 

コリント後書96節に『少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである』とありますが、神は豊かに蒔くものを豊かに祝福してくださる方です。ですから、みなさんもたくさん神に献げて、たくさん恵みを受けてください。神は惜しみなく献げる者を豊かに恵んでくださる方です。 (2014.08.17)