本文へスキップ

message

2014年7月08日

富める青年のはなし

 

『イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を持つになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである』。(マタイ福音書1921)

 

 この青年は折角イエスに出会いながらも、愛がなかったために天国の恵みを失ったところです。そして最後に、「青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」とあるため「富める青年」と言われています。

 

 この青年がイエスのところにきて、「永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と質問をしてきたのです。彼は立派な道徳家であったようです。ですからこんな質問をしたのです。しかし、この青年の間違いは「どんなよいことをしたら」と言っているところです。しかし、神の恵みにあずかるのも、救いにあずかるのも、わたしたちが何かよいことをしたからではありません。

 

 ローマ書328節に『人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである』とあります。もし、正しいことをしたら救われるのであれば、イエスの十字架の贖いは関係ありません。わたしたちが神の前に正しくないので、イエスが十字架にかかって罪を贖い、わたしたちのために救いの道を開いてくださったのです。

 

 さて、イエスはこの青年の質問に答えて、「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」と言われました。そしてイエスは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬いなさい」。また「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」と言われました。この前半は「十戒」の言葉です。

 

 それに対して青年は「それらはみな守ってきました。ほかに何か足りないでしょうか」と胸を張って答えています。これを見てもこの青年はかなり真面目な人だったようです。そこで、イエスは「よいことをして完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人たちに施しなさい」と言われたとき、この青年は「悲しみながら立ち去った」のです。それは「たくさんの資産を持っていたからである」と説明しています。つまり自分の資産を投げ出すことはできなかったのです。つまり、彼は慈善家でしたが愛が足りなかったのです。

 

 さて、わたしたちが「神の前に完全であるということは、よいことをすることではなく、聖霊の力による愛に満たされて、愛を実現し、愛に生きることです。よいことをして救われるのなら、イエス・キリストの十字架は必要ありません。わたしたちがよいことが出来ないからイエスが十字架にかかって、わたしたちの罪を贖い、救いの道を開いてくださったのです。

 

 コリント前書13節に『…もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である』 (2014.0706)