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2014年6月29日

葡萄園の労働者の譬話

 

『そこで彼はひとりに答えて言った、「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃金をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ…』 (マタイ福音書2014)

 

 このぶどう園の譬話でイエスは二つのことを語っておられます。一つは「神の平等」ということで、神はすべての人をおなじように取り扱ってくださる、ということです。二つ目は「人生の終わりを全うすることが大切である」ということです。

 

 譬話は、あるぶどう園が収穫期になり大勢の労働者の手が必要になったので雇い入れることになりました。そのために町に出ていって労働者を雇り入れましたが、6時に雇った人には一日一デナリの報酬を約束しました、しかしまだ労働者を必要としたのでまた町へ行って、まだ仕事にありついていない人を見つけ「相当の賃金を払うから」と雇い入れました。また主人が昼の12時ごろに町に行くと、まだ仕事にありついていない人を見つけ「相当の賃金を払うから」と雇い入れたのです。その様にして3時から雇われた人もいました。最後には午後5時に雇われた人がいましたが、彼は仕事につけず、家にも帰ることもできず途方に暮れていましたので、喜んで一所懸命に働きました。

 

 一日の労働を終えて賃金を払うときになり、主人は午後5時に雇われた人から支払いました。なんとその金額は一デナリだったのです。思いがけない報酬にその人は喜んだのは言うまでもありません。ところがそれをみて、他の労働者たちは、自分たちはもっとたくさん貰えるに違いないと期待しました。主人が支払ったのは同じ一デナリでした。それをみて朝6時から働いた人は、「不公平だ」と文句を言ったのです。

 

 そのとき主人は、「あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ」と言ったというのです。つまり神のみ心は皆んなの者に対して平等にしてくださるということです。マタイ福音書545節には『天の父は、悪い者の上にも、良い者の上にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださる』とあります。

 

 二つ目は、「人生の最後を全うすることが大切だ」ということを教えられるところです。わたしたちクリスチャンの人生の究極の目的は天国(神の国)に入ることです。そのために神を信じ、聖書の教えを守って、神の御心の適う聖い生涯を励んできたのです。ですから、その最後まで走り抜くことが大切なのです。「わたしは若いときには熱心に信仰に励んだものです」と言った人がありましたが、若いときに熱心だったからといっても、最期まで走り抜かなければなににもなりません。大切なのは最後まで走り抜くことです。

 

 あるときボストンマラソンのテレビ中継を見ました。スイッチを入れたときはマラソンの後半でしたが、アナウンサーが興奮した声で中継をしていました。「これはえらいことになりました。新記録です…」と。画面は一人の女性のランナーが猛烈なスピードで走っていました。ところが40キロ地点で突然、そのランナーが走ることをやめてうずくまってしまったのです。そしてコースから離れて姿を消してしまいました。つまり落伍してしまったのです。ここまで猛烈な走りをしていても落伍をしたのでは何もなりません。われわれも天国のゴールに入るまで走り続けなければなりません。

 

 「よく生きることは、長く生きることよりも尊いことです。そして、その終わりが特に大切です。何故なら、そこから天国に連なっているからです」とあります。ここに「その終わりが特に大切です」とありますが、とにかく信仰生活は最後を全うすることです。そして究極のゴールは天国(神の国)です。

 

 わたしは教会の中で生まれ、教会のなかで育ちました。そして今日まで80年間、神を畏れ、聖書の教えを守って生きてきました。間もなく天国のゴールです。それまで走り抜きたいとおもっています。皆さんもゴールを目指して走り抜いてください。その沿道には先に天のゴールに入った信仰の先輩たちが、わたしたちのために声援を送っていてくださいます。人生の途中から信仰の競争に参加されたかたも、大切なのは天国のゴールに入ることです。天国は午後5時の人も大歓迎です。また同じように扱ってくださいます。

 

 次に、わたしたちの反面教師として、一人の王の話をします。彼はウジヤという人で「南ユダ王国」の10代目の王です。彼は若干16歳のときに王位について52年間も国を治めましたので、国は強大になり栄えていいたのです。歴代誌下268節には『ウジヤは非常に強くなったので、その名はエジプトの入口までも広まった』とあります。また15節には『こうして彼の名声は遠くまで広まった。彼が驚くほど神の助けを得て強くなったからである』と記されています。

 

 なぜ、こんな強大になったのでしょうか。それは4節に『ウジヤは父アマジヤがしたように、すべて主の良しと見られることを行った。彼は神を恐れることを自分に教えたゼカリヤの世にある日の間、神を求めることに努めた。彼が主を求めた間、神は彼を栄えさせられた』とあります。つまりウジヤには幼いときから彼を育てたゼカリヤという守役がいました。彼はウジヤに対して将来王になるための皇帝学を教えただけではなく、彼は祭司でしたから「神を畏れること」を教えたのです。そのためウジヤは神に愛され、神の祝福を得て、国は驚くほど栄えたのです。

 

 ところが16節には驚くようなことが書かれています。『ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った』。「君子、豹変す」という言葉がありますが、どうしてこんなに豹変したのでしょうか。それはその頃自分の守役だったゼカリヤが亡くなったと想像されます。これまではウジヤがどんなに偉くなってもゼカリヤがいる限り、彼が「目の上のたんこぶ」のような存在で、彼には頭が上がらなかったのです。

 

 ところがゼカリヤがいなくなると、回りはウジヤの言うことを聞くイエスマンばかりで、王はいつの間にか神に対する畏敬の心を失ってしまったのです。そして高ぶって神に対して罪を犯したのです。「すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした」とあります。祭壇で香をたくのは祭司だけにゆるされている仕事で、いくら王と言ってもゆるされないことです。その道理を失ったのは王が高慢になったからです。

 

 それを見た祭司アザリヤが「主に香をたくことはあなたのなすべきことではありません。ただアロンの子孫で、香をたくために清められた祭司たちのすることです」と注意をされたとき、それを反省するばかりか、腹をたてた王は祭司に向かって怒っている間に、王は重い皮膚病に罹りました。神殿を追い出された王は生涯、王宮ではなく離れ殿に隔離されたのです。そして死後は「王たちの墓に連なる墓地に、その先祖たちと共に葬った」とあります。52年間も国のために貢献した王でしたが、最期を最うできなかったとして、歴代貢献のあった王の墓ではなく「その他、大勢の墓」に葬られたのは最後が全うできなかったからです。  (201406.29