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2014年6月15日

ペ ン テ コ ス テ の 後

 

『五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。…すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語りだした』(使徒行伝21)

 前回は聖霊降臨日(ペンテコステ)で、二千年ほど昔にイエスの弟子たちに聖霊が下った話をしましたが、今日はその後、イエスの弟子たちがどう変わったか話します。

 まず第一に、彼らは「大胆な人に変えられ」ました。これまでは自分たちにも迫害の手がのびるのではないかと恐れていましたが、聖霊に満たされた結果、大胆になってイエスの復活を証しだしたのです。14節『ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた』。そして『あなたがたは彼を不法の人人の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである』(23)と大胆に話しています。また、32節には『このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである』。また315節にはもっと激しく語っています。『あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中からよみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である』と。しかもイエスの復活を語ることはユダヤ人たちのいちばん嫌うことでした。それにも関わらず大胆にイエス

の復活を語ることができたのは、彼らが聖霊に満たされていたからです。今日でも御霊に満たされたら何者をも恐れずに大胆に主を証しすることができるのです。みなさんも御霊に満たされて大胆に証しするものになってください。

 第二に、御霊に満たされたとき「愛の人に変えられた」のです。44節『信者たちはみな一緒にいて、いっさいの者を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして、…家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし…』とあります。これは愛の共同生活でした。この中には裕福な人も、貧しい人もいたと思いますが、彼らは御霊に満たされていたので、たくさん持ってきたからといいて威張る者もなく、また貧乏だからといいて卑屈になるものもなく、みんなで分け合って共同生活をしたのです。

 ガラテヤ書522節に『御霊の実は愛…』とありますが、だれでも御霊に満たされると愛の人になるのです。その反面、御霊に満たされないとケチになります。皆さんも御霊に満たされて愛の人になってください。ケルケゴールは「愛は惜しみなく与える」と言っていますが、イエスも十字架上で愛を示してくださいました。その反面、有島武郎は「愛は惜しみなく奪う」と題した小説を書きましたが、これは御霊の愛ではなくエロスの愛だからです。

 第三は、「すべての人に好意を持たれた」のです。これは彼らが御霊に満たされて恵まれていたので、エルサレムの町の人々が感動したからです。その結果、「その日、仲間に加わった者が三千人ほどであった」とあります。

 この世にはいろいろな団体がありますが、教会は御霊の臨在のある団体で、御霊で一つになった団体です。そして教会から御霊の臨在がなくなれば、この世の団体と少しも変わらないものとなります。

この御霊の臨在こそキリスト教会のいのちなのです。

 使徒行伝1126節に、『このアンテオケで、初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるよういになった』とありますが、これが「クリスチャン」と呼ばれるようになった最初です。この教会は「聖霊と信仰に満ちた」バルナバの伝道によって出来た教会で、バルナバの感化を受けて恵まれた教会となりました。それを見たアンテオケの町の人たちが、「あの人たちはクリスチャンだ」と尊敬を込めて言ったのです。今日でも、クリスチャンと呼ばれることは名誉なことです。それは、クリスチャンは神を畏れて真面目に生きているからです。ですから間違っても「あれでもクリスチャンか」と言われるようなことがないように気をつけなければなりません。

 コリント後書32節に『すべての人に知られ、かつ読まれている』とありますが、ここで柘植不知人先生は「クリスチャンは読まれる聖書である」と言っておられます。つまり、この世の人々は自分で聖書を読むことをしなくても、クリスチャンの生きざまを見て「キリスト教はこんな宗教だ」と理解している。だから人々からキリスト教が誤解されないようにしなければならない、と語っておられます。

 この世の人たちは何も知らないようであっても、意外にわたしたちがクリスチャンであることを知っているのです。いつも朝の礼拝に来られる婦人が体調の都合で夕礼拝に来られました。そして「先生、驚きました。どうしてわたしが教会に行っているのを知っているのでしょうね」と話していました。朝わたしが家にいるのを見て同じアパートの人が、「あら、今日は日曜日でなかったのかしら」と言ったというのです。その人とはそれほど親しい人ではなく、出会ったときに黙礼をする程度の関係なのに、自分がクリスチャンで日曜日に教会に行っているのを知っていたのです。(2014.06.15)