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2014年6月1日

とりなしてくださる主

 

『こう言い終わると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった』(使徒行伝19)

 

 今日は「イエスの昇天」について話します。金曜日に十字架にかけられたイエスは、日曜日の朝、墓から復活されましたが、それから40日間のあいだに幾たびも弟子たちの前に現れて復活されたお姿をお見せになり、弟子たちに復活の信仰を与えられたのです。そして40日目にベタニヤ(ルカ24:50)で、弟子たちや大勢の群衆の見ている前で雲に包まれて天にご昇天なさいました。

 

 イエスは最後に(マタイ福音書)で「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)と言われたのに、弟子たちをおいて先に天に昇天されたのは、いったいどうなったのでしょうか。このことについては、また後日お話します。

 

 では、昇天されたイエスは、今はなにをしておられるのしょうか。ローマ書834節には『神の右に座して、わたしたちのためにとりなしてくださるのである』とあります。またヘブル書725節には『彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである』とあります。ここに「とりなして」とありますが、神の右に座しておられるイエスがわたしたちの祈るいのりをいちいち神にとりなしてくださるので、みんな神に届くのです。

 

 みなさんが祈るときに、いつも最後に「イエス・キリストのみ名によってお願いします」と閉じますが、これは決して祈りの最後のしめくくりの言葉ではありません。このイエスの名によって祈るときに、イエスはわたしたちの祈りを聞き、神にとりなしてくださるので、みんなの願いが神に届くのです。

 

 こんな話があります。海外に単身赴任をしているお父さんに小さな子供が手紙を書きました。まだ字が書けないのに葉書に三つの絵をかきましたが、お父さんはそれを見て子供のほしがっていたものが分かり届いたので、子供は大喜びをしました。子供の手紙にはただ△(三角)と□(四角)と|()だけだったのに、どうしてそれが分かったのでしょうか。それはお母さんのとりなしがあったからです。お母さんは「坊や、これはなに」と一つずつ聞いてお父さんに教えた(とりなした)からです。わたしたちの舌足らずのような祈りでもイエスが神にとりなして下さるので、みんな聞いてくださるのです。

 

 ヨハネ福音書1414節に『何事でも、わたしの名によって祈るならば、わたしはそれをかなえてあげる』とありますが、この「わたしの名」とはイエス・キリストの名前です。ですから祈るときには、「イエス・キリストの名」によって祈りましょう。

 

 ある青年がお婆さんのところに行きました。そのときに「お婆さん、ぼちぼち天国に行く準備をしなければね」と話すと、お婆さんが「どうしたら天国に行けるのかね」と聞きました。そこで青年は「イエス様を信じて洗礼を受けたらいい」と教えましたら、「そしたらわたしに洗礼を授けてもらいたい」と言いました。

 

 それを聞いて早速、教会から駆けつけて聖書のお話をして洗礼準備をしました。そして、いよいよその当日になりましたので、お婆さんは朝からお風呂に入り、よそいきの着物を着て玄関で教会からの到着をまっておりました。その様子を見た近所の人が、「あらお婆さんいい着物を着てどうしたんですか」と聞きましたら、そのお婆さんは「へえへえ、今日からイエス様のお嫁さんにしてもらいますねん」と答えたのです。それを聞いて近所の人はその意味がわからなく、頭を振りながら去って行きました。

 

 やがて教会から到着して、その家庭で洗礼式をしました。すると、お婆さんは「これで天国に行ける」と言って大変喜んでいました。それから数日後、青年がお婆さんの家を訪ねると、「洗礼を受けたから何も心配はないが、一つだけ気になることがある」と言うのです。そこで何か聞きますと、「わたしの最後には、誰からも下(しも)の世話をしてもらいたくない」と言うのです。そこで青年は「それなら、そのようにお祈りすればいい。イエス様は『何事でもわたしの名によって祈ればかなえてあげる』と言っておられるから」と話すと、それからお婆さんは、毎日、そればかり祈っていました。

 

 しばらくしてお婆さんは体調を崩して救急車で運ばれましたので、その知らせを聞いてわたしは病院に駆けつけました。ベットの回りには家族や親戚の人たちが取り巻いていました。そこで、そのお婆さんの頭に手を置いて最後のお祈りをしましたが、それから間もなく息をひきとられたのです。実に平安なご召天でした。そのとき、ふと気がついたのは、このお婆さんは、その祈りのように、誰からも下(しも)の世話をしてもらっていなかったのです。つまり、神はお婆さんの祈りのとおりに聞かれたのです。

 

 東京のある教会にとても恵まれたお婆さんがおられました。そのお婆さんの口癖は「お祈りをしながら天国に召されたい」でした。それを聞いた若者たちは「そんなにうまくいけばいいが」と言っていましたが、そのお婆さんの家で開かれた家庭集会の席で、皆でお祈りをしているときに、お婆さんが静かになったと思ったら、召されていたのです。つまり、お婆さんの日ごろの祈りの通りに神はしてくださったのです。             (2014.06.01)