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2014年5月4日

すべてをご存じの神

 

『彼らが陸に上がって見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。シモン・ペテロが行って、網を陸に上げると、百五十三匹の大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた』。 ヨハネ福音書219節)



 このヨハネ福音書21章は、毎年、復活祭後に語られるところで、「思い煩い」について教えられるところです。そしてこれは、「イエスが復活されて三度目にテベリヤ湖で弟子たちの前に現れたところ」とあります。このテベリヤ湖とは、ガリラヤ湖と言ったほうが皆さんはよくお分かりのことと思います。ルカ福音書ではゲネサレ湖とありますが、いずれも同じ湖です。そしてテベリヤ湖とは当時このパレスシナを占領していたローマ帝国の皇帝テベリウスの名前からきたものです。


 弟子たちは、何故ここに来ていたのか、それはイエスが「ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう」という言葉にしたがったからです。ところがイエスはまだ来ていなかったので、彼らは「明日の糧」の心配をしたのです。これまではイエスと一緒に行動をしていたら、何の心配もなくおられたのに、イエスから離れたら食べることを心配しはじめたのです。



 そこでペテロたちは、自分の家から舟と網を持ち出して漁にでました。ところが「その夜はなんの獲物もなかった」のです。彼らはこのガリラヤ湖の漁師でしたが、こんなに早くに漁のコツを忘れたのでしょうか。そうではなく、神の祝福がなかったからです。


 同じような出来事がルカ福音書5章にあります。シモン・ペテロたちが漁から帰って網を洗っていたところに、イエスが来られて「沖にこぎ出して、網をおろして漁をしてみなさい」と言われました。しかし彼らは、「わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言って、イエスのお言葉に従って網を下ろしたところが「おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった」とあります。これは自分たちの経験とは別にイエスに従ったからです。


 21章では挫折をしている弟子たちにイエスは「舟の右の方に網をおろして見なさい」という言葉に従い、網を下ろしたところが、引き上げることが出来ないほどの魚がとれたのです。普段は舟の左、つまり左舷に網を下ろすようですが、イエスは舟の右、つまり右舷に網を下ろせと言われたのです。弟子たちはイエスの不可思議な言葉にも従ったところが、百五十三匹の魚が取れたのです。これがイエスの言葉を疑うことなく信じたからです。



 9節『彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった』。弟子たちが陸に上ってみたら、イエスが炭火をおこしてあり、魚もパンも用意してあるのを見て彼らは驚きました。これは弟子たちが取ってきた魚ではなく、イエスは彼らの必要をご存じで、必要なものを備えてくださたことを知ったのです。『主の山に備えあり』(エホバ、エレ)です。つまり神はわたしたちの必要をみなご存じで、みな備えていてくださるのです。ですからわたしたちも弟子たちのように思い煩わないようにしなければなりません。


マタイ福音書631節に『だから何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、と言って思い煩うな』また『あなたがたの天の父は、これらの者がことごとく必要であることを、ご存じである』とあります。そして「思い煩うのは異邦人である」(神を知らない人たち)とあります。また『神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えてあたえられる』とありますが、この「神の義」とは、神との正しい関係を保つことです。そして、神と正しい関係にある人は思い煩いません。

 

つぎに、神はわたしたちのすべての必要をご存じのお方で、わたしたちが求める前から、必要を備えてくださる方です。こんな話があります。昔、神戸で働いていた宣教師が一つの伝道プロジェクトを計画しました。しかし、それには多額の費用が必要でしたの神に祈りました。「もし、このプロジェクトがあなたの御心なら、これに必要なお金を与えてください」と。そしてその期限は二ヶ月でした。

 宣教師は毎日一生懸命に祈りましたが、なかなか祈りがきかれません。やがて二ヶ月の期限がたち最後の日となりましたが宣教師は諦めないで最後の最後まで祈り続けましたら、夕方の郵便で英国から外国郵便が届いたのです。そしてその中には宣教師が必要としていたのと同額の小切手が入っていたのです。宣教師の願いが届いたのです。そして驚いたことには、その郵便が発送された消印がなんと、宣教師がプロジェクトを立てて祈りはじめるよりも前だったのです。

つまり、神は宣教師の必要をよくご存じだったのです。 (200405.04