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2014年4月27日

手と脇の傷の跡を見て

 

『それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしの脇に差し入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』

(ヨハネ福音書2027節)

 

 金曜日に十字架にかけられお亡くなりになったイエスは、その日のうちに十字架から下ろされてアリマタヤのヨセフ(日本でいえば国会議員のような立場の人)が、自分のために用意していた墓にイエスを葬りました。こんなに急いだのは日没から過越しの祭りに入るからです。(ユダヤでは一日の終わりは日没で、この日没から新しい日が始まるからです)。

 

 日曜日の朝、女性たちがイエスの墓に詣でたところが、墓の中はもぬけの空でイエスの亡骸はありませんでした。それをみて当惑していた女性たちに天の使が現れて、イエスの復活を伝えましたが、彼女たちは何事が起ったのか理解できず、悲しみながら退散しました。

 

 弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、戸を閉じて息をひそめていました。ところが夕方にイエスが彼らのいるところに現れて、「安かれ」と言われ、手と脇を彼らにお見せになりましたので、それを見た弟子たちはイエスであることを知り、「弟子たち主を見て喜んだ」のです。

 

 ヨハネ福音書1620節にイエスが『よくよくあなたがたに言っておく、あなたがたは泣き悲しむが、この世(十字架にかけた者たち)は喜ぶであろう。あなたがたは憂いているが、その憂いは(イエスの復活によって)喜びに変わる』と言われたことが成就したのです。

 

 ところが、この場面に弟子の一人トマスはいませんでした。彼が帰ってみると、他の仲間たちが興奮のるつぼとなっていましたので、何事が起ったのか聞くと、「イエスが復活して、ここに来られた」と言う返事でした。トマスは自分だけが蚊帳の外に置かれたような気持ちになり、面白くありませんでした。そこで「お前たちが見たのはイエスの幻影(まぼろし)に違いない。その方が本当にイエスなら手と脇に十字架につけられた時の傷があるはずだ。それを見ない限り信じない」と言ったのです。

 

 ところが、八日目にイエスはこんどはトマスの前に現れて、手と脇の傷を見せられたので、それを見てトマスは確かにイエスであることを知りました。そのときイエスは『信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。また『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者はさいわいである』と言われました。

 

 さて、トマスのように懐疑的な人、自分の目で確かめないと、単純に信ずることのできない人がたくさんいます。なかには、単純に信じる人を知的でないと軽蔑する人もいます。しかし詩篇531節に『愚かな者は、心の中に神はいないという』とあります。この愚か者とは「罪人」のことです。罪人だから素直に神を信ずることができないのです。罪が深ければ深いほど、素直に信じられなくなります。その反対に、心の清い人は素直で単純です。人を疑うことはしません。自分に罪があるから人を疑うのです。

 

 ある夜、一人の人から電話があり、「聖書の教えは素晴らしいのですが、ただ奇跡だけは信じられません。イエスが水の上を歩かれたとか、五つのパンで五千人を養われたとか…」。そこでわたしは「あなたが奇跡を信じるられるようにお祈りします」と言って電話を切りました。それからしばらくして、ある家庭集会のときに、「先生、奇跡が信じられるようになりました」と言いましたので、「それはよかったですね。いったいどうしたのですか」と聞きますと、「ある晩、食事のときに入れ歯を一緒に飲み込んでしまい、家内にご飯を団子にしてもらって飲み込んでもどうすることもできず、あとは、神様に助けてもらうだけだと、家内と一緒に祈りました。ところが、三日ほど後に出てきた」というのです。そして「これがその入れ歯です」と言って見せてくれましたが、部分入れ歯で鋭い針金がついており、これが胃壁や腸にでもひっかかっていたら大変なことになったとおもいました。それから、その人は素直な信仰の人になり、恵まれて天国に行かれました。

 

 イエスは『見ないで信ずる者はさいわいである』といわれましたが、信仰は理屈や納得ではありません。聖書のお言葉をそのままに信ずることです。ヤコブ書121節に『み言葉を素直に受け入れなさい。み言葉にはあなたがたの魂を救う力がある』とあります。そして素直に信じた者がしあわせになるのです。

 

 旧約聖書のサムエル記下9章にメピボセデという人物が登場します。彼はサウロ王の孫でヨナタンの息子でした。サウロ王が戦死したためにダビデ王の時代となったので、(サウロ王がダビデを迫害をしていたので)、自分たちに類が及ぶのを恐れて僻地に息を潜めて隠れ住んでいました。

 

 ところが、ダビデはヨナタンに随分と世話になったので、ヨナタンは既に戦死をしていましたので、だれか残された者がいないか捜させたところがメピボセデを見つけ出したのです。そこで使いを送りエルサレムに来るようにと伝えたところが、彼はダビデ王の申し出を素直に受けてダビデの王宮にきましたので、「彼は王の子ひとりのように、食卓で食事をした」とあります。つまり、王子と同じ待遇を受けたのです。それは彼がダビデ王の好意を素直に受けたからです。

 

 ところが、10章にはハヌンという人が登場します。彼の父もダビデの逃亡時代に随分と助けましたので、その恩に報いたいと考えましたが、その人は既になく、そこで忘れ形見のハヌンにエルサレムに来るようにと声を掛けましたが、彼はダビデを疑い、素直に受けることができませんでした。そして使いの者を辱めて帰したのです。それだけではなく、かえってダビデの復讐を恐れて戦いの準備をしたというのです。

 

 わたしたちも恵まれたクリスチャン生活を送るためには、素直にみ言葉を信じて受け入れるものでありたいものです。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。また「見ないで信じる者はさいわいである」

 

 このトマスは、この後にインドに伝道をしていい働きをしました。

そして「聖トマス教会」は今でもインドの代表的教会だと言われています。

 

2014.4.27