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2014年4月13日


神殿の幕が二つに裂けた



『イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた』。
                  (マタイ福音書2751節)

 キリスト教の信仰のなかで特に覚えたいのは、十字架と復活と聖霊降臨、そしてキリストの再臨です。十字架はわたしたちのために子なる神キリストが十字架にかかって死に、罪の贖いを成就してくださったからです。また復活は三日後の日曜日の朝にイエスは墓から蘇られ、サタンの死の力のうちに勝たれました。そしてこれはまたわたしたちにも復活の希望が与えられたのです。ですからわたしたちに関わることとしてイエスの復活を喜ぶことができるのです。

 『わたしはよみがえりであり命である。わたしを信ずる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信ずる者は、いつまでも死なない』(ヨハネ1125)とあります。ですから全世界のクリスチャンはこの日を自分のこととして喜んでいるのです。

 次に、聖霊降臨日はイエスが復活されてから50日目にイエスの弟子たちや信者たちに聖霊(神の力)が注がれて、彼らは力強い人とされただけでなく、イエスの福音を宣べ伝える者とされたのです。そして今も信じ求める者にこの聖霊の力を与えてくださるのです。

 ここまでは二千年前に既に成就されていますが、最後の一つはキリストの再臨で、これはこれから起こるもので、わたしたちが待ち望んでいることです。それは終末期に地上は艱難時代が来ると聖書は預言しています。しかし、その前にキリストが再臨されて聖徒を天に携挙されるのです。しかしこの時はイエスが、「わたしも知らない、父だけが知っている」と言われていますが、神の秘儀でありますので、わたしたちは油断しないで緊張して生きているのです。

 さて、今日から受難週にはいりますが、イエスが十字架にかかられる大切な週です。それに先だって日曜日にイエスはエルサレムに入場されました。そのとき群衆は道路に棕櫚の葉を敷き、手に手に棕櫚の葉をもって「ホサナ、ホサナ」(今わたしたちを救ってください)と言って歓迎したので「棕櫚の聖日」(パームサンディ)と言います。しかしイエスにとってはこれからが大変なときだったのです。

 木曜日にイエスはエルサレムに入場されましたが、これは最後の入場となりました。その夜、ユダに導かれた祭司長の手の者に捕えられたからです。その前にエルサレムのとある家の二階座敷(マルコの母の家といわれていますが)で弟子たちと最後の食事のときをもたれました。これを「最後の晩餐」といい、後のキリスト教会の聖餐式の原型になったと言われています。またダビンチらの絵画としても有名です。

 その後、イエスは弟子たちを連れてゲッセマネの園で祈りのときをもたれましたが、このときの祈りは「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22:44)といわれるほどの激しいものでした。その後、祭司長の手の者に捕えられて大祭司カヤパの邸宅に連行されました。

 そして金曜日の早朝からローマの総督ピラトの裁判を受けられましたが、イエスは最後まで、ピラトが不思議に思うほど一言もお答えになりませんでした。それは弁明(言い逃れ)をして助かろうとは思わず、十字架にかかることが神のみ旨であったからです。そしてピラトから死刑を宣告されてイエスはエルサレムの郊外のゲッセマネ(されこうべ)の丘に連行されました。

 イエスの十字架は格別に重く、道中幾たびも倒れたために進行は遅々として進まないのに業を煮やしたローマ兵は、側にいた屈強な男を捕まえてイエスの十字架を無理やりに負わせました。この男はクレネ人シモンでアフリカのクレネ地方(今日のリビヤ)に住むユダヤ人で、エルサレムで過越の祭りのために来ていた人でした。しかしローマ兵に無理やりに十字架を負わされて、群衆から自分が死刑囚と思われるのではないかと煮えくり返るような思いでしたが、ローマ兵には抵抗できませんでした。

 しかし、このことを通してシモンはイエスを知り、イエスを信ずる者になりました。それだけではなく、彼の家族がイエスの信者となり初代教会でも有名な家族になったと、使徒行伝やパウロの書簡のなかにその名を見つけることができます。

 さてイエスはゴルゴダの丘で午前9時から十字架につけられましたが、その間、イエスは「十字架上の七言」といわれる、七つの言葉を語られましたが、そのなかでも良く知られる有名なのが『父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにしているのです』(ルカ23:34)。此の言葉は今でも多くの人を救いと信仰に導いています。

 昼の12時に「太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ」とあります。そして3時に『父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます』と言って息を引き取られました。厳かな最後でした。この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ったとあります。また百卒長も「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言って神を崇めたのです。

 このイエスが息を引きとられたとき、『聖所の幕が真ん中から裂けた』とあります。これは実に重大な事を表しているのです。神殿には聖所と至聖所があり、その真ん中を幕で隔てられていました。そして聖所は一般の人も入ることが許されていますが、至聖所は神が臨在するところで、大祭司でさえも一年に一回しか入ることが許されなかったのです。そしてヘブル書98節には『前方の幕が存在しているかぎり、聖所に入る道はまだ開かれていない』とあります。

 ところが、この隔ての幕が裂けたということは、もうなんのはばかることなく「アバ父よ」(お父さん)と神に近づいて礼拝することができるようになったということです。ヘブル書1019節には『このような所にはいることができ、わたしたちのために開いてくださった新しい生きた道を通って入ることができる』ようになったとあります。

 つまり、イエスが十字架の死によって、わたしたちの罪の贖いを完成してくださったから、もう「はばかることなく」(何の遠慮もなく)、神に近づくことができるようになったのです。神殿の隔ての幕が二つに裂けたということはそのことです。

2014.4.13