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2023年2月5日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所 使徒行伝16章16節~34節  
    
 

    「あれがほしい」


「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」
(使徒16章31節)

「信仰に始まり信仰に至らせる。」
(ローマ書1章17節)

「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」   
(Ⅱテモテ書4章2節)


 先週は、使徒パウロのヨーロッパ伝道の最初の伝道地ピリピでの、高級衣料「紫布」の商人ルデヤと  ラジオ牧師の羽鳥明先生の弟の純二先生が、主なる神様によって心を開かれて、福音の説教を信じて救われたことを学びました。今日は、ピリピの町で続いて救われた二人の人について見ていきます。

 パウロとシラスとテモテとルカが、ルデヤの家から川岸の祈りの場に行く途中、「占いの霊につかれた女奴隷に出会った」のでした。その女性は、「占いをして、その主人たちに多くの利益を得させてい」ました(使徒行伝16章16節)。現代でも「占い」が蔓延しています。その市場規模は「およそ1兆円の規模」と言われています。しかし、「占い」をする人は、「不眠症」や「精神を病む」ので大変です。それは「占いの霊につかれた」とありますように、「占い」には悪霊が働いてるからです。「悪霊、汚れた霊なんて空想の産物だ」と思っていたら大間違いです聖書の記述は「現実にその通り」です。

 この「占いをする女奴隷」の主人たちは彼女の占いを利用して金もうけをしていましたが、その女性がパウロの伝道に「ちょっかい」を出してきました。聖霊に導かれたパウロ達に対する「占いの霊(悪霊)」の妨害でした(16章17節)。一見すると彼女は「パウロの伝道を助ける」かのように、  「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救の道を伝えるかただ」とう伝道応援ですが、実は悪霊が「悪さ」をしているのです。世間に「褒め殺し」という「人を褒めて、実は蹴落とす手段」がありますが、悪霊に褒められても得にはなりません。悪霊も本当のことを言っていると思わせて、そのうちに「偽り」を言い包(ふく)められ、「滅び」に至ります。「占い」も精神を病み、最後は滅びに至ります。

 ですから、使徒パウロは、悪霊の巧妙な策略を見抜いて、「主イエス・キリストの名」によってその「悪霊」を追い出し、女性は完全に癒されたのでした(16章18節)。ところが、主人たちは、この女性の「占い」で金をもうける手立てを失い、その「いまいましさ」と「腹いせ」のためにパウロとシラスを捕えて、町を管轄する長官に訴えました(16章19~21節)

 ちょうどその頃、当時のローマ皇帝のクラウデオ帝の勅令で、「ユダヤ人退去命令」(18章2節)が出ていたので、ローマの植民都市ピリピの町でも「反ユダヤ主義」となり、長官たちは群衆の叫びに煽られ、裁きもせずにパウロとシラスをむち打し、暗くてジメジメした「一番奥の地下牢」に入れ、足枷まではめました(16章22~24節)。

 可哀そうな一人の女性を助けてやったというのに、予想もしなかた「最悪の状態」に追い込まれたパウロとシラスでした。普通の人なら「何んということだ。神様、何故こんなことになるのですか。」と神様に食って掛かるとことですが、パウロたちは呟(つぶや)きも自己弁護もせず、「神に祈り、さんびを歌いつづけた」のでした(16章25節)。それは、聖霊に満たされ、主イエス様が共におられる「信仰者の姿」なのでしょう。

 その祈りと賛美に答えるかのように奇跡的な大地震が起こり(4章31節参照)、牢獄の扉が全部開いて、囚人の鎖も解けました(16章26節)。この事態に驚いたのは「獄吏(牢獄の看守)」でした。目を覚した「看守」は、てっきり「囚人たちは逃げ出した」ものと早合点して、責任を取るため自殺しようとしました。パウロは即座に大声を上げて「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」と叫んで「看守」の自害を思いとどまらせました(16章27,28節)。

 看守の経験からすれば、とても想像できない光景でした。それで、不当な訴えや裁きで鞭打ちや足枷や真っ暗で湿った地下牢へ投獄されたにも関わらず、パウロとシラスが何事にも動じないで主なる神様に祈り賛美していた姿に「侵し難い何かがある」と看守は直感したのでしょう。彼はパウロとシラスとの前におののきならひれ伏し、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」と看守は尋ねました(16章30節)。それは、「あなた方の持っている、その侵しがたい何かが欲しい」と言う意味で、「先生がた、わたしは救われ(て、あなた方のようにな)るために、何をすべきでしょうか」との意味でしょう。それはまた、「聖霊の満たし」を受けたソーントン先生の「講壇での姿」を見て、「あれがほしい」と求められた藤村荘七先生の「あれがほしい」(週報裏表紙)との思い同じでしょう。

 その求めに対して、パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」と勧めました(16章31節)。「主イエスを信じなさい」は、キリスト教信仰の「入り口」であり「土台」です。主なる神様からの全ての祝福は「主イエスを信じ」る信仰から始まります(ローマ書1章17節)。看守の求めた「救われて、あなた方のようになりたい」という救いは、まず「救い主イエス様を信じる」ことから始まり「全き救い」に至ります。

 更に、その「救い」は家族にも及びます。もちろん家族の一人が救われたら、後は「自動的に救われる」意味ではありません。各々が個人的に救いの御言葉である「福音」を聞いて主イエスを信じなければならなりませんが、ともかく家族の一人が救われると、家族の救いの「端緒(始まり)」となることは確かです。看守の家族は自宅に来たパウロ達の語る「神の言葉(ことば)」を聞いて、それをしっかりと受け止め信じて「その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け・・・神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」のでした(使徒16章32節~34節)。

 パウロとシラスが、「褒め殺し」のような「悪霊の悪さ」に困り果て、また「占いの霊につかれた女奴隷」の女性を哀れに思い、「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言って、悪霊を追い出して女性を救ったのですが、そこから起こった数々の痛みと困難も、実は主なる神様がピリピの町の第3番目の「救の御業」をなさる備えだったのです。

 現代の私達も、全ての人を救う「主イエス様の福音」を、どのような時にも証し宣べ伝えましょう。「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」(Ⅱテモテ書4章2節)との御言葉に従ってまいりましょう。

            2023年2月5日() 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎