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2022年9月18日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所  使徒行伝13章13節~15節   

          「ヨハネ・マルコの記した福音書」 


「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」
(ヘブル人への手紙12章11節)   

「マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから。」
(Ⅱテモテ書4章11節)

「クプロ伝道」(使徒13章4~12節)の後、「パウロとその一行は…」(13章13節)とあり、それまでとは異なって「バルナバ」と「パウロ」が入れ替わっているので(13章2節、7節の後半)、聖書学者は「このあたりから、実際にパウロが一行の指導者となったのかもしれない」と考えます。

 その後は、「パウロとその一行は、(クプロ島の西側の)パポスから船出して、(地中海を隔てた北側の小アジア(現在のトルコ))沿岸のパンフリヤの(港町の)ペルガに渡った」(13章13節前半)のでした。そこは「パンフリヤ地方の首府」であり、町の北に「アルテミス」という女神の神殿があって伝道の困難な土地でした。その地で、「ヨハネ(マルコ)は一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしま」(13章13節の後半)い、早々とリタイヤしたのでした。その理由は、⑴単なるホームシック、⑵急な小アジヤヘの旅程変更への不満、⑶これから予測される宣教の困難さに恐れをなした、⑷自分はいとこのバルナバについて来たはずだったが、途中でリーダーがパウロに替ってしまい、パウロの信仰や異邦人伝道について行けないと思った、などが推測されますが、確かなことは分りません。

 このような「挫折」「行き詰まり」は、だれもが経験してきたことです。ハミガキ等のトップ企業の「ライオン株式会社」の前身の「ライオン歯みがき」初代社長小林富次郎さんは、初め宮城県でマッチの軸木を切り出して一儲けしようとしていました。ところが、切り出した木材が大洪水のために一夜にして一本残らず流され、しかも流された原木で大きな被害が出て激しい非難を浴びました。

 小林さんは絶望し、へなへなと雨の降り続く提防にくずおれました。そして「もはや自分の人生もこれまで」と目の前の「北上川」に身を投じ死んでしまおうと思い詰めた、その時でした。何気なく自分の懐に手を入れたその手に、以前お世話になり受洗した教会の牧師からのハガキが触りました。そこは、「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」(ヘブル人への手紙12章11節)とありました。雨に打たれながらその御言葉を読んでいくうちに「これは恵みの神が、私を訓練しておられる 愛のむちであるかも知れない。」と思ったのでした。

 小林さんは自殺を思いとどまり、立ち上がって教会へ行きました。そしてそれから数年「ライオン歯みがき」の製造に着手し、その「歯磨き粉」は大ヒットしました。その結果、信仰的にも、物質的にも、驚くばかりの祝福を受け、大成功を見ることになったというのです。

 パウロ達の「第一回伝道旅行」の途中で「挫折」を経験した「マルコ」の母親は「マリヤ」と言い、その家も「マリヤの家」と呼ばれているので(12章12節)、「マルコ」は若い時に父親を失ったのでしょう。彼の家は、エルサレム市内にあり、大人数が集まれる広さを持ち「過越の食事(最後の晩餐)」(マルコ14章15~31節)、「聖霊降臨」(使徒1章13~15節、 2章1~3節)等、主とお弟子たちの集まりによく用いられ、「ペテロ救出の祈り会」も行われ、女中がいる門構えの家だったので(12章12-17節)、かなり裕福であったとが分ります。

 また、「マルコ」は、主イエス様やお弟子たちと交わる素晴らしい環境があったのでした。更に、主イエス様が「ゲッセマネの園」でお祈りされた後、「祭司長、律法学者、長老たち」に逮捕されなさる時、「ある若者が身に亜麻布(高級衣料)をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。」(マルコ福音書14章51、52節)とあり、この「若者」は裕福な育ちの「マルコ自身」ではないかと言われます。

 ユダヤ地方に飢饉があった時に、従兄のバルナバとパウロが救援物資を持ってアンテオケ教会からエルサレムへ派遣された際に(使徒11章29-30節)、彼らはマルコを連れてアンテオケ教会ヘ帰りました(12章25節)。その後、「マルコ」はパウロとバルナバの助手として「第1回伝道旅行」に同行しました(13章5節)。「マルコ」が主イエス様や聖霊降臨ついて、実際に見聞きした事を伝えることが出来たからです。

 しかし「マルコ」は、この伝道旅行の途中、一行から離れて、エルサレムへ帰りました(13章13節)。その上に追い打ちをかけたのが、バルナバにより再びアンテオケ教会ヘ連れて来られた「マルコ」を「第2回伝道旅行」に同行させるかを検討する時(15章37節)、「パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考え」(15章38節)、バルナバとパウロの間に「マルコを連れて行く、行かない」で大激論となり、激しい反目が起りました。「その結果ふたり(パウロとバルナバ)は互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」(15章39、40節)のでした。

 それから後の約10年間に「マルコ」の行動に関する明確な記録はありませんが、パウロがローマの獄中(牢屋の中)から「コロサイ人への手紙」や「ピレモンへ手紙」を書き送った時には、「マルコ」はパウロと共におり、パウロは「マルコ」を「同労者(共に伝道する同労者)」(ピレモン24節)と呼んでいます。また「マルコについては、もし彼があなたがたのもとに行くなら、迎えてやるようにとのさしずを、あなたがたはすでに受けている」(コロサイ4章10節)とし、更にパウロがローマで殉教する最晩年には、「マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから。」(Ⅱテモテ書4章11節)と書き記しています。パウロが殉教したあとは、「マルコ」はペテロと共にローマにいました(Ⅰペテへ5章13節)。

 紀元AD2世紀のヒエラポリスの「パピアス」というキリスト教会の指導者は、「ペテロの通訳者となっていたマルコが、ペテロから聞いたイエスの言行を、順序正しくはないが、記憶しているかぎり 正確に書き記した。」(『教会史』)と記しています。これが「マルコ」の記した「マルコ福音書」のことです。

 裕福な家庭の「お坊ちゃん育ち」で、主イエス様とお弟子たちと親しい交わりがあった「マルコ」ですが、「挫折」を経験し、そこから立ち上がり、周りの人々に助けられて伝道者として成長しました(ヘブル人への手紙12章11節)。そして、「神様と教会と人類への最大の貢献」である「マルコにより福音書」という「不朽の名作」を残してくれました。
                   2022年9月18日(日) 主日礼拝説教要旨 竹内紹一郎